
1)春来たる御使
「相模先輩、美化委員じゃなかったんですね」
すらりと高い身長と立派な体躯を黒い学ランで包み、新一年生を意味する黄色のネームプレートを付けたその男は、にこやかに笑いかける。
この柔和に笑う顔と、よく似た声をどこで知ったのか、頭の中で記憶が繋がった時、和都は自分の足元がガラガラと崩れていくのを感じた。
自分はまだ、あの黒い記憶に囚われている。
足元からジワリと這いずり出した影と同じ色で、ネームプレートに刻まれた『玉木』という名前から、目が離せなかった。
◇ ◇
四月を迎えた新学期、和都たちは無事に進級し、三年生になった。
「三年三組でーす、観察簿持ってきました」
「はいよー、ご苦労さん」
保健委員として毎朝の保健室に観察簿を提出するのも慣れたものである。
はいどうぞ、と和都から渡された観察簿を受け取ると、養護教諭の仁科は少しだけ頭を屈めて、和都の額に口付けた。
「今日の分ね」
「……はぁい」
狛杜高校に通う
もともと和都は自分では霊力を生み出せない性質らしく、惹き寄せられた悪霊のせいで倒れてしまうのを防ぐため、強力な霊力を持つ養護教諭・
当初こそイヤイヤだったのが、今は騒動を通して仁科と想い合うようになったのもあり、和都としては平日の『好きなヒトとのスキンシップ』の一つになっていた。
「今日は放課後、委員総会だっけ?」
観察簿をデスクに置きながら、仁科が言う。
今日の放課後は、委員に属する生徒と生徒会が一堂に会する『委員総会』の日だ。
「うん、そう。……人前出るの、やだなぁ」
「そんな苦手だっけ?」
「昔から妙に注目されちゃうから、あんま好きじゃないんですよね」
体育館で行われる『委員総会』では、生徒たちの顔合わせの他に、各委員長が集まった生徒たちの前で委員の仕事について説明することになっている。保健委員長を務める和都にとって、新学期最初の大仕事だ。
ため息混じりに言う和都の頭を、仁科はコーヒーカップを片手に優しく撫でる。
「『お姫様』は大変だねぇ」
「……どーせ女顔ですよ」
和都はその低身長ぶりと、女性と間違われるような美しい顔立ちから、男子校なのも相俟って、なにかと目立つ。特に今は『狛犬の目』のチカラを抑える霊力が少ないのもあって、余計に人を惹きつけてしまうのだ。
本人は『狛犬の目』のチカラせいだったり、単に女顔だからだと思っており、アイドルにでもなれそうなくらいの美貌の持ち主だから、という自覚をもっていない。
そんな和都は、生徒たちから『狛杜高校のお姫様』と呼ばれており、本人はかなり不服である。
「とりあえず、昼休みに準備しにくるんで」
「りょーかい、書類出しとくよ」
「お願いしまーす」
そう言って和都は保健室を後にした。
◇
放課後になると、本校舎の西側にある第一体育館で『委員総会』が始まる。
生徒会の役員と、各委員の委員長・副委員長の顔合わせも兼ねており、委員に属する生徒は全員が参加する決まりだ。
ステージ前に長机が並べられ、生徒会役員と委員長・副委員長と並んで座る。生徒会役員の自己紹介が終われば、次は各委員長たちの自己紹介と活動の説明である。
「保健委員長を務めます、相模です。よろしくお願いします」
保健委員の番になり、マイクを渡された和都が立ち上がって話すと、クラスごとに集まった生徒たちからは、どよめきのような感嘆の声が上がった。
──こんなちっこいのが三年かよ、って思われてるんだろうなぁ。
去年よりは多少伸びたし、痩せすぎと怒られていた体重も増えたほうだが、仁科を追い越したい割に全く成長の気配はない。身体測定はもう少し先だが、未だ学年の最低身長は変わらなそうだ。
「えー、保健委員の活動についてですが──」
改めて保健委員の多すぎる仕事内容を、副委員長になった岸田と一緒に説明し終えると、残りの委員の出番となる。
そしてその後は、各委員ごとに集まり、改めて各学年の担当生徒との顔合わせだ。
委員総会は基本的に生徒同士の顔合わせが目的のため、学年やクラス、名前といった簡単な自己紹介をする程度。本格的な委員活動は早いところで翌日からだ。ちなみに保健委員は仕事が多く、健康観察記録簿の提出といった毎日の活動は担任教師から伝えられてすでに始まっており、明日は保健室に集まって掃除当番表の作成や、その他の仕事の振り分けをする予定になっている。
顔合わせでみる保健委員のメンバーは、新一年生を除くとあまり変わっておらず、和都は少しホッとした。三年生は一学期までしか委員活動に積極的な参加ができないので、仕事を把握している二年生がいると、二学期以降も安心して任せられる。
それぞれの自己紹介と顔合わせが終わり、保健委員になった一年生たちの質問に答えたりしていると、不意に背の高い、見知らぬ一年生が和都に近寄ってきた。
「相模先輩っ」
「えっ」
妙に親しげな呼び声と一緒に肩を叩かれ、思わず振り返る。
少し見上げるような高身長の彼の顔を見て、和都は目を見開き、息を呑んで固まった。
真新しい学ランに、新一年生を意味する黄色のネームプレート。
話しかけてきた一年生は、驚いて固まった和都のことなど気にも留めず、楽しそうに
、そしてにこやかに笑った。
「相模先輩、美化委員じゃなかったんですね、まさか保健委員長だったなんて」
「……あ」
一瞬、水色のネームプレートに見えた気がしたが、気のせいだったらしい。
今、この学校に水色のネームプレートの生徒はいない。その色は、自分が一年生だった時の、三年生が身につける色だから。
「あーあ、知ってたら、保健委員に入ったのになぁ」
どこか見覚えのある柔和な笑顔を、ぐい、と鼻先に近づけられて、大きな手のひらが頬を撫でた。
声も聞き覚えがある。その顔も、知っている。
少しだけ違うのは、左目の下にほくろがないくらい。
だから、こいつは『あの人』じゃない。
頭では分かっているはずなのに、手を払い退けることも、言葉を発することも出来なかった。
奥底に封じたはずの真っ黒な記憶が、一気に頭の中を駆け巡って、心臓がドクドクと脈を打つ。息が、上手く出来ない。
「──おい、一年! なんだその態度はっ」
すぐ近くにいた二年生の長谷川が、馴れ馴れしく和都に触れる一年生の腕を掴んで引き離した。
「名前は? どこの委員だ?」
「……美化委員の、
彼の発した『玉木』という名前に、手に持っていたはずの書類が、バラバラと床に散らばっていく感触。
こちらを呼びかける長谷川の声がだんだんと遠くなる。
視界の端から滲み出していた黒い煙が、一気に目の前を覆っていって、何も分からなくなった。
「相模先輩!? 大丈夫ですか!?」
第一体育館の一角で叫ぶような呼び声が響いて、風紀委員長の
保健委員が集まっている辺りの端のほうで、倒れた和都に向かって長谷川が懸命に呼びかけている。
「──悪い、
風紀委員の細かい仕事の説明と書類を、副委員長の倉敷に押し付けるように任せると、春日はすぐさま和都の元へと駆け寄った。
「どうした」
「あ、春日先輩! 相模先輩、突然倒れちゃって……」
長谷川が半泣きの顔で、横たわる和都の上半身を抱き抱えている。目を閉じた和都の顔は、今まで見たことがないくらい、真っ青になっていた。
「……いつもの発作か?」
「わ、わかりません。この一年生に話しかけられた途端、先輩、急に青ざめちゃって……」
長谷川の視線が向けた先には、きょとんとした顔の一年生、玉木の姿。
その顔を見た春日もハッと息を呑み、普段の仏頂面から眉を顰めて睨みつけた。
「えー? オレ、何もしてませんよ? ただ知ってる人だったから話しかけただけで……」
玉木は両手を広げ、困ったように、どこか楽しそうに笑っている。
「……そうか」
春日は内心舌打ちをしながら玉木から視線を逸らすと、和都をいつものように横抱きにして立ち上がった。
「保健室に運ぼう。長谷川は一緒に来てくれ。残りは岸田で対応できるか?」
和都の落とした書類を拾っている岸田に向かって春日が尋ねると、岸田はひらひらと書類ごと手を振る。
「ああ、こっちは大丈夫だ。頼むわ」
岸田に向かって頷くと、春日は長谷川と一緒に足早に体育館を出て行った。
「先生! 仁科先生!」
ノックもなくガラガラと保健室の引き戸が開き、ただならぬ様子で長谷川が駆け込んできた。その後ろに続いてやってきたのが、青い顔で目を閉じた和都を抱えた春日で、さすがの仁科も驚いて目を見張る。
「どうしたんだ?」
仁科はすぐに和都が倒れたのだろうと気付き、慌てて一番デスクに近い、端にあるベッドのベッドカーテンを引いた。そして、そこへ寝かせるよう春日に指示をする。
「……何があったの?」
ベッドに横たわる和都の着ていた学ランを脱がせながら、仁科は春日と長谷川に尋ねた。
「変な一年が馴れ馴れしく話しかけてきて、相模先輩に触ってきたんです。そしたら先輩の顔がみるみる真っ青になって……」
すぐ近くで見ていた長谷川が、おろおろと泣きそうな顔で話す。しかし和都は、他人に話しかけられたくらいで倒れるほど、極端な人見知りではない。
「胸を押さえたりは?」
「そういうのはなかったです。顔が真っ青になったと思ったら、すぐ倒れちゃって……」
仁科の問いかけに長谷川は首を振る。
和都は二年生の一学期頃まで、突然謎の発作を起こし、倒れるのを繰り返していた。ただその原因は引き寄せられた悪霊たちによるもので、この場合は心臓を強く握られたような胸の痛みがあるらしく、胸を押さえて倒れることが殆どである。
しかし、その症状がなかったとすると、原因は別物。熱などはなさそうだが、なんだろうか、と仁科が考えていると、すぐ隣にいた春日が俯いたままぽつりと言った。
「……たぶん、ストレスです」
「ストレス?」
眉を顰めたまま、春日は顔を上げると長谷川の方を見る。
「長谷川、あの一年は保健委員か?」
「いえ、美化委員だって言ってました」
「名前は?」
「えっと、たしか『玉木虎二郎』って言ってましたね」
長谷川の返答に、春日の眉間の皺がより険しくなった。
「そうか。……じゃあ、なるべく和都に近寄らせないよう、気を付けてもらえないか」
「えっ。わ、わかりました。けど……なんでですか?」
オロオロとしつつももっともな疑問に、春日は少しだけ考えて。
「──あの一年生は、和都が昔すごく苦手だった人間にソックリなんだ。倒れたのも、たぶんそのせいだろう。だから……」
「そうなんですね……。わかりました! 他の保健委員にも通達しておきます!」
「ああ、頼んだ」
大きく頷いた長谷川が、早速伝えてきます、と保健室を大急ぎで出ていった。
それを見送って、一人残った春日に、仁科は和都の眠る場所のベッドカーテンを閉じて尋ねる。
「……アイツに、親以外の苦手な人間がいるって、初耳なんだけど?」
和都は以前から両親と折り合いが悪く、中学くらいからほぼ自宅に軟禁され、放置されて育ったような子どもだ。これは本人の持つ特殊なチカラのせいもある。
なので、彼には両親と春日以外に、まともに接する人間はいなかったはずなのだが。
「──先生は、和都から一年の時に襲われたって話、どこまで聞いてますか?」
俯いた春日に聞かれ、仁科は去年の夏、和都と一緒に安曇神社に出掛けた際に聞いた話の内容を思い出した。
「……たしか、同じ委員の三年生に、公園のトイレに連れ込まれて、無理矢理……その、性的暴行をうけたって」
和都が春日にしか話していなかったという、秘密の話。
真っ黒な記憶。
「アイツにそういう暴力を振るったのは、当時美化委員だった三年生の『玉木
春日が苦々しい声で口にした名前。
例の一年生と同じ苗字ということは、兄弟だろうか。
「あぁでも、春日クンが動いてくれて、それで学校からいなくなったんだよね?」
「……アイツはそう思ってるみたいですけど、俺は何もしてません」
「え、そうなの?」
驚く仁科に、春日はぐっと両の手を自身で強く握り込み、それから絞り出すような声で言った。
「……それにアイツは、俺のせいで先輩に襲われたんです」
「それは、どういう……」
春日は俯いたまま、肩を震わせながら低い声で言う。
「玉木先輩は、俺に執着していたんです」
「はぁ?」
「あの人は、俺が傷つくところを見たくて、和都を襲ったんですよ……」
玉木は春日が高校に入ってすぐ、妙に親しくなろうと声をかけてきた。
高校に入学する直前、入学式で行う新入生代表挨拶の打ち合わせで学校にやってきた際、春日を職員室に案内したのが玉木だったのだが、正直接点はそれくらいしかない。
執着される理由も分からなかったので、変わらず警戒し続けていたら、今度は同じ委員ということもあり、和都との距離を縮め始めた。
最初はいつものように、玉木が和都を好きになったのだと思っていたのだが、玉木が和都を気にかけていた理由は『春日の大事な人だから』。どこかで春日と和都が親しい間柄だというのを知ったらしい。
それに気づいた時、春日は玉木に気を付けるよう忠告したのだが、すっかり信用しきっていた和都には聞き入れてもらえず──。
「何がきっかけで先輩が俺に執着していたのかは知りません。けど、高校に入ってすぐの頃の和都は、俺に頼り切りにならないよう、距離を置こうとしていたので……」
「そいつは、そこにつけこんだのか」
「……はい。和都の警戒をといて近づいて、自主退学する前日、和都を襲ったんです」
それが、春日祐介を一番傷つける手段だと、知っていたから。
そのためだけに、和都に深くて暗い傷をつけた。
「あの日は塾の日で、全部終わってから和都の連絡で知りました。報復しようにもすでに学校を去った後で。俺はこの件に関して、本当に、何も出来ていない……」
苦々しい声で、春日が搾り出すように言う。握り込んだ拳が、ブルブルと小刻みに震えていた。
「……なるほどね。そいつは、かなり計画的に春日クンを、そしてアイツを狙ったわけだ」
狡猾に、用意周到に。
まるで蛇のように獲物を絡め取り、消えない毒のような傷を二人に打ち込んで、ここから去っていたのだ。
「──アイツは最初、相手の名前すら教えてくれませんでした。俺が本当に殺すだろうからって。だから相手が先輩だったという話も、殺さないことを条件に教えてもらったんです」
和都には、自分のせいで春日の進路を──人生の選択を変えさせたという負目がある。
その上さらに、自分の犯した失敗のために、人殺しなどさせられない、という思惑もあったのだろう。
──だからって、一人で抱え込むなんて。
今でこそ、周りを頼ろうとしてくれるようになったが、当時の和都がどこまでも自罰的だったことがよく分かる。
そしてそれは、この親友にも言えること。
「……もしかして、春日クンが弁護士になるっていうのは」
「えぇ。あの人は危険です。社会に野放しにしていい人間じゃない。だから、社会的に殺すために弁護士になるつもりです」
「なるほどね……」
もっと早く。身近な大人として、この二人が抱え込んでしまった問題を見つけてあげられていたら、と仁科は唇を噛んだ。
お互いにどこまでも距離は近いのに、心が向き合っていないように見えていたのは、きっとそのせいだろう。
冬休み前の一件で、二人はようやくきちんと親友同士になれた、と思っていた。けれど、まさかこんな形で古傷を抉られることになろうとは。
「それこそ、向こうの思う壺のような気もするけどね」
春日が敵意を向ければ向けるほど、狡猾な彼は薄ら笑いを浮かべているような気がする。
「構いません。あの人がどう思ってようが、俺は自分の望んだままにやるだけですから」
顔を上げた春日の目は、高校生のそれと思えないくらいに暗い殺意に満ちていた。
「……相模は知ってるの? 春日クンが理由で襲われたってこと」
「分かりません。あの日のことは、相手が玉木先輩だったこと以外、何も聞けていないので。でも、あの人の性格を考えたら、自ら明かしていそうですけどね」
「……そうか」
仁科は深く息を吐く。
それから閉じられたベッドカーテンのほうへ視線を向けた。和都はまだ起きる気配がない。
もう一度息を吐いて、癖っ毛の頭を掻きながら春日のほうを向いた。
「相模が起きたら連絡するから、春日クンは教室で待ってなさい」
「……しかし」
「そんな凶悪な顔みたら、いくら相模でも怯えるぞ」
付き添っていたいという気持ちは本心だろう。
しかし、憎悪に塗れた顔を見た瞬間、和都は昔のことを思い出して余計に気持ちが沈むはずだ。
ただでさえ玉木先輩にソックリな男を見て動揺して、精神的なダメージを負っているところに、春日への罪悪感を募らせたら、きっと心が持たない。
「少し、頭を冷やしてなさい」
「……すみません」
仁科の意図を汲み取ったのか、春日は俯いてそう言うと、保健室を出ていった。
空がうっすらと橙色に色づき始めた頃、ベッドが小さく軋んだような気がして、仁科は閉じられたクリーム色のベッドカーテンを少しだけ開ける。
真っ白なベッドの上で、和都がぼんやりと天井を見つめていた。意識を取り戻したらしい。
仁科はホッと息を吐くと、ベッドカーテンを開けながらいつものように声を掛けて近寄った。
「起きたか、大丈夫か?」
呼びかけられても、まだどこか虚ろな表情でこちらを見た和都の顔が、大きな目をさらに大きく見開き、一瞬にして恐怖と驚愕の色に染まる。
「……いやっ」
短く叫ぶと、両腕で己の顔を覆い隠し、肩を震わせながら可能な限り見たくないと、ベッドの上で背中を向けられた。
──ああ、そうか。
怯えているのだ。
去年の夏休み、黒い記憶を告白してくれた時に『大きい男の人が怖い』のだ、と言っていたのを思い出す。意識が混濁した状態で『大きい男の人』を見たせいで、かつて自分を弄んだ人と重ねてしまったのだろう。
仁科は少し考えて、ベッドの脇で床に膝をついた。こうすればベッドで寝ている和都とかなり近い高さの目線になる。
「……和都」
学校では普段呼ばない下の名前で呼ぶと、震えていた肩が大きく跳ねて、ハッとしたように肩越しからこちらを見てきた。
顔色はやはりまだどこか青ざめていたが、同じくらいの高さにある顔を見て、ようやく仁科だと認識したらしい。少しだけホッとして、泣き出しそうな表情で寝返りを打ち、身体をこちらに向けてきた。
「……ごめんなさい」
そっと手を伸ばして頬に触れると、ひとまわり小さな細い手が恐る恐るその手を包む。見間違えたことを謝っているのだろう。
「大丈夫だよ」
そう言って顔を引き寄せて、怯えたままの顔にキスをしようと口元を寄せた。しかし、和都はやはりまだ怖いらしく、ギュッと目を固く閉じる。
──やっぱ、怖いよな。
大きな男に無理やり組み敷かれ、陵辱されたのだ。
それはどれほどの恐怖だったのだろう。
過去の記憶に出来たと思ったはずのことが、予想外のところからフラッシュバックしてしまったのだ。
仁科は目を閉じる和都の額に、自分の額をそっとくっつけた。
「……あ」
和都が怯えながら目を開ける。その顔に仁科は優しく笑ってみせた。
「心配すんな。ゆっくりいこう、な?」
「はい……」
申し訳なさそうに視線が俯く。自分の様子を理由に、キスをやめてしまったのだと気付いたようだった。
なんでも自分のせいだと思ってしまう悪癖が出ている。
──今は、仕方ない。
記憶と一緒に、気持ちも以前のようになってしまったのだろう。
仁科は安心させたくて、そっと手を握ると、そのまま細い指に自分の指を絡めた。
指先で自分のよりも小さくて細い指を優しく擦っていると、少し落ち着いてきたのか、和都がおずおずと口を開く。
「……あの。おれ、委員活動の質問に答えてる途中だったはず、なんだけど」
「ん? ああ、残りは岸田クンと長谷川クンが対応してくれたから、大丈夫だったみたいよ」
「そっか……」
和都が少しホッとした顔でそう言って、指先でぎゅっと握り返した。
「二人とも心配してたよ。明日、ちゃんとお礼言いなね」
「はい」
返答を聞いた仁科は、よし、と手を離すと、ゆっくり立ち上がる。それを見て、和都も身体を起こした。
「歩いて帰れそうか?」
「うん、大丈夫」
受け取った学ランに袖を通し、ボタンを留める和都の様子を見るに、確かに問題はなさそうである。
「じゃあ、風紀委員のほうも終わってるだろうし、春日クン呼ぶから一緒に帰りなさい」
そう言って仁科は春日宛にメッセージを送ろうと、スマホを取り出した。しかし和都は、どこか気まずそうな顔をする。
自分を運んだのが春日で、倒れた理由にもきっと気付いたに違いないと、分かっているのだろう。
しかし、倒れたきっかけの一年生がどんな理由から和都に話しかけてきたのかも分からない以上、一人で帰らせるわけにはいかない。
「……例の一年生が待ち伏せとかしてたら、いやだろ?」
「はい」
仁科は俯きつつも頷く和都の頭を優しく撫でると、春日宛にメッセージを送った。
◇
和都は帰宅するとすぐ、通学鞄も玄関に放ったまま、お風呂場へと向かう。
──ああ、汚い。はやく、はやく。
熱いシャワーを出しながら、ボディソープの泡で、ひたすら身体をゴシゴシと洗った。何度も、何度も。
昔の、あの忌まわしい記憶を思い出したせいか、自分がどこまでもうす汚く思えて気持ち悪い。
身体を泡だらけにしてゴシゴシと擦ってはシャワーのお湯で洗い流す、を二度三度と繰り返してようやく、なんとか気持ちが落ち着いてきた。
あれは過去のこと。終わったこと。
何度か深呼吸し、浴室にある鏡で自分の顔を見ながら、帰り道のことを思い出す。
──ユースケ、何も言わなかったな。
仁科に呼び出された春日は、いつもと変わらない顔で保健室にやってきた。
勘もよく、手際のいい彼は、自分のカバンもちゃんと一緒に持ってきてくれて、そのまま教室に戻らず下校できた。少しだけ気まずいと思っていたのだが、ちょうど部活が早く終わったという菅原たちと昇降口を出たところで一緒になったので、結局そのまま四人で帰った。
だから、なぜ倒れたのかとか、あの一年生に何を言われたのか、という話はできないままである。
──アイツ、先輩にソックリだった。
学ランに付いていた『玉木』と書かれたネームプレート。あの色がもし水色であったら、本人だと思ったかもしれない。
そのくらい、あの玉木虎二郎という一年生は、顔も声も、まとっている雰囲気すらもソックリだった。
忘れていた、記憶の底に押し込めていた、玉木先輩との日々がどんどん蘇ってきて頭が痛い。
弟がいたこと、同じ本が好きだったこと、三年生に絡まれていたら、春日のように味方になってくれた人。
それが、最後の日に豹変した。
薄暗い多目的トイレの中で、今までに見たことのない、なんとも嬉しそうに恍惚とした表情で自分を見下ろしながら、先輩は言った。
「お前の大事なものはぜーんぶ、オレが貰っちゃったよ。
お前には何も残らない。
お前は今後、誰かと愛し合う度にオレを思い出すんだ」
呪いのような言葉と共に、下腹部を内側から突き上げられるような衝撃を思い出し、和都は気持ち悪くなってその場で吐いた。
シャワーのお湯で、口周りや浴室の床を洗い流し、再び壁面の鏡に視線を戻す。
細い首に、生白くて薄い胸元。その心臓の近くに、紫色に内出血した痕──キスマークが見えた。
春休みの最終日、ちょうど仁科も休みだと言うので、家に遊びに行った。
その時に、明日から忙しくなるから『お守り』だなんだと理由をつけてつけられた、『好き』と『所有物』の意味合いを持つ痕跡。
ベッドの上で、あーだこーだと相変わらずに言い合いながら、抱き合いながら戯れあって、つけてくれたもの。新学期前だから軽めにしたと言っていたせいだろうか、もうすでに薄くなり始めている。
ほんの先週の話なのに、どうしてこんなに遠く感じるのだろう。
鏡の中の自分と額を合わせて、和都は小さく息を吐いた。
──先生、キス、してくれなかったな。
いつもなら、不安な自分を安心させるためにと、学校にも関わらずに平気で口付けてくるような人が。
怖がっている自分のために、気を遣ってくれたのだと頭では分かっている。
けれど、嫌われてしまっただろうか、と不安で堪らない。
「……先生」
どうしても嫌なことばかり考える。
呪いのような言葉を思い出してしまったせいだろうか。
それに、
──何か、いる気がする。
視えないけれど、自分の周りに確実にまとわりついている、何か。
自分には、普通の人に視えないものが視えるチカラがある。けれど今は、以前のように完全に視えるわけじゃないので、そのせいで視えないのかもしれない。
良くないものは、弱った気持ちにつけこんで、やって来る。
「……はやく寝よう」
和都はもう一度シャワーを頭から浴び、浴室を後にした。
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