R18長編

✡️黒衣の御使は夢より来たりて

「カイキなる日々」本編第3部。三年生になった和都たちの前に現れたのは?

イベント期間のみ限定公開作品。長編の最初の2話だけの公開です。
高校生三年生になった和都たちの前に、あるトラウマを蘇らせる新一年生・玉木虎二郎が現れる。和都にやたら馴れ馴れしく付きまとう彼の目的とは──。教師×生徒 / トラウマ / モブレ(未遂)

2)恐怖を埋めるもの

 いくら叫んでもやめてもらえなくて、身体の奥を何度も突き上げられた。
 自宅のベッドの上。家には自分以外に誰もいないはずなのに、布団を捲られ、パジャマを剥ぎ取られ、黒い人影が覆い被さっている。
 そいつは露わになった肌を無遠慮に、ベタベタと触っては自分の中に侵入してきた。
 そうして何度も無理やりに、繰り返しの絶頂を押し付けられて嫌気がさす。
 快楽はこんなにも恐ろしくて気持ちの悪いものだったと、身体中が悲鳴を上げていた。
 なぜ忘れていたのだろう。
 影を纏ったあの柔和な顔が、楽しそうにこちらを見て笑っていた。
 何度も訪れる律動に、身体の外も中も、隅々まで汚されていく感覚。
 あの声が、言葉が、聞こえてくる。
『──お前はもう、』
 違う、違う。
 違わない。
 いやだ。
 いやだ。

「──いやっ!!」
 自分の発した声で目が覚めた。
 心臓がバクバクと脈打って、呼吸が荒いまま。見慣れた天井がカーテンの隙間から差し込む朝日で明るい。
 酷い夢を見た。
 きっと昨日、自分のかつてのトラウマを呼び起こす存在──玉木虎二郎に出会ったせいだろう。
 和都は朝がやってきたことにホッとすると同時に、布団の中で違和感を感じ、慌てて起き上がって自分の身体を顧みた。
 夢と違って布団をかぶっているし、パジャマも着たままで裸ではない。
 けれど。
「……サイアク」
 掛けていた布団を捲ると、パジャマの下腹部から下半身に掛けて、ベタベタの液体か何かで濡れたように汚れていた。匂いの感じから失禁とも違うので、あの夢に身体が反応してしまったのだろう。
 幸い、布団は汚れていなかったが、パジャマの胸元辺りまで液体の痕があった。激しい淫夢を見たにしたって、汚れすぎではないだろうか。
 三年生に進級する少し前くらいから、仁科の家で時々性欲発散の練習と称し、自慰の手伝いをしてもらっている。なので自分がそういう時に、どのくらい汚してしまうのかも知っていた。
 だからこそ、この汚れ方が異常なのは分かる。
 これじゃあまるで、
 ──誰かが本当に来てたみたいだ。
 もし、あの影が、本当に来ていたのだとしたら。
 和都はぶんぶんと頭を振る。
 玉木先輩は、そういうことの出来る人間には見えなかった。たまたまソックリな人を見たせいで、トラウマと重なっただけに違いない。
 和都は深くため息をつくと、シャワーを浴びるために一階へと降りた。

 ◇

「三年三組です、観察簿持ってきました」
 登校してホームルームが終われば、日課の観察簿を保健室に持っていく仕事だ。
 狛杜高校は二年生の時に文理選択を考慮したクラス分けをする関係で、三年生になると特別な事情がない限り、そのままのクラス分けと担任で学年が上がる。そのため、ホームルームの雑談が長い後藤先生が担任なのもそのままだ。
 和都が観察簿を持っていく時は、たいてい時間ギリギリの、最後の方である。
「ああ、おはよ」
 保健室に入ると、仁科がいつも通りに出迎えてくれた。
 昨日のことで少し顔を合わせづらかったのだが、杞憂だったらしい。
「さっき岸田クン来てたけど、会えた?」
 そう言いながら近づいて来る仁科に、和都は観察簿を差し出す。
「あ、はい。階段のところで。昨日のお礼も言いました。岸田もなんだかんだちゃんと仕事してくれますよね」
「最初は嫌がってたけど、まぁ責任感はある子だから」
 観察簿を受け取った仁科が、不意に和都の顎を掴んだ。よくあることなのに、一瞬身体がビクッと跳ねて身構えてしまう。
「……顔色、よくないな」
 心配そうな表情がこちらを見ていた。
「嫌な夢見て、よく、寝れなくて……」
 まるで、あの時を再現するような悪夢。
 内容が内容のせいか、和都は思わず視線を逸らしてしまった。
 自分が汚い存在だと思い出されて、こうやって触れられているのすら、申し訳なくなって来る。
 ふっと顔に影が落ちて、仁科の顔が近づいてきた。
 視界の端に蠢いていた影が、ジワリと一気に伸びて暗くなる。
「……やっ!」
 反射的に両手が伸びていて、仁科を思いきり突き飛ばしてしまった。
 すぐに日課のキスをしようとしていたのだと気付いて、和都はハッと顔を上げる。
「……あ、ごめ、ちが。嫌じゃない。でも、怖くて」
 仁科が少し困ったような顔をしていた。まともに見ることができなくて、視線を逸らす。
 あんな夢を見てしまったせいだろうか。
 頭では分かっているのに、どうしても身体が拒絶してしまう。
 本当は、あんな夢を見たからこそ、仁科には触れて欲しいのに。
「大丈夫、気にしてないよ。ゆっくりいこう、な?」
「……はい」
 仁科の優しい声と背中を撫でてくれる手が、心に痛かった。

 ◇

 昼休み、いつもなら屋上で昼食をとるところだが、今日は春日の提案で教室でとることにした。
 学年問わず人の集まる場所だと、あの妙に慣れ慣れしい一年生・玉木がやってくるかもしれないからだ。
「また困ったやつに付き纏われてるなぁ」
「……ごめんね」
「気にすんな、気にすんな」
 昼食後、春日は委員の打ち合わせがあるというので、菅原が和都に付き添ってくれていた。玉木が高身長なので、何かあった時のためにも背の低い小坂よりは菅原のほうがいいだろうという判断である。ちなみに小坂は、バスケ部副キャプテンである菅原に代わり、新一年生の勧誘のためのチラシ配りのため、昇降口のほうへ行ってしまった。
 玉木については、菅原たちに「昔、和都に付き纏っていた奴の弟が入学してきて、同じように付き纏ってきて困っている」と説明してある。
 去年は教師に扮した『鬼』から守るために付き添っていたが、今回は人間で、それも入学してきたばかりの後輩なので、まだマシだなと菅原は笑っていた。
「ま、三年の教室なら、下手な一年はなかなか来ないだろうし、大丈夫でしょ」
「だと、いいけど……」
 相変わらず、周りに迷惑をかけてばかりだ、と和都は意気消沈する。
 その一年生がどんな奴なのか、菅原に聞かれて答えていると、廊下のほうから知っている声が聞こえてきた。
「すみませーん、相模先輩って何組ですかぁ?」
 妙に慣れ慣れしい声で、廊下にいる三年生に声を掛けている。
「なぁ、この声って、もしかして……」
「う、うん……」
 教室の奥、グラウンドに面した窓際から、廊下のほうに視線を向けると、ちょうど背の高い一年生が開け放された教室の出入り口の前を通りかかった。
 そして教室の中を探すように見ていた玉木が、すぐに和都に気付いて手を振る。
「あ、いたいた。相模せんぱーい」
 にこやかに笑いながら、遠慮なくズカズカと上級生の教室に入ってくる一年生に、出入り口近くにいたクラスメイト達がムッとした顔で玉木の腕を掴んで引き留めた。
 挨拶等もなく、あまりに無礼な様子の後輩に、さすがにカチンときたらしい。
「おい待て待て、なに勝手に入ってきてるんだ?」
「え? 教室なのに挨拶って必要ですか?」
「自分のクラスじゃないんだから、当たり前だろ?」
 それなりに長身のクラスメイト達は、玉木の横柄な態度が気に入らないようで、教室の外へと連れ出してしまった。
「どうせそのうち、オレもこの教室使うことになるのに?」
 玉木は上級生に対し、物怖じもせず呆れた声で言い返す。その様子に、クラスメイトの三年生達は余計に気分を害したようだった。
「同じ学年ならまだしも、お前まだ一年だろ?」
「礼儀がなってないんだよ」
「今時先輩後輩の上下関係? 年功序列? めんどくさー。流行んないっすよ?」
「なんだと!?」
 ヘラヘラとした口調で玉木が喋るせいか、クラスメイト達の語気が強くなる。
 廊下で始まった妙な言い合いに、他のクラスの生徒達もちらほらと見物に集まり始めていた。
「……なんだあれ、面倒くせーな」
「うん……」
 普通の下級生なら、上級生のクラスに来るのは多少なりとも緊張するものだが、玉木はその辺りの感性がないらしい。
 とはいえ、学年が上の教室だろうとこうやって無遠慮にやってくるのであれば、厄介だ。
 少し考えていた菅原が、和都にそっと耳打ちする。
「よし、今のうちに反対の出口から教室出ていって、どっか匿ってもらえ」
「え、でも……」
「あーいうやつは、一回でも相手すると余計に調子に乗るからな。なるべく相手にすんな。こっちはどうとでもするからさ」
「わ、わかった」
 二人は頷きあうと、そっと立ち上がった。
 それから和都は廊下の騒ぎに気を取られているクラスメイト達の影に隠れ、そっと反対の出口から教室を後にする。菅原は和都が出ていったのを確認すると、揉めている玉木たちのほうへと歩いて行った。
「はーいはいはい、お前が噂の玉木クン? 相模に何の御用なの?」
 手を叩きながら菅原がそう言うと、玉木は相変わらずキョトンとした顔をする。クラスメイト達に叱られても、全く意に介していないようだ。
「……先輩は、誰ですか?」
「オレは菅原佳壱。こう見えてバスケ部の副キャプテンよ」
 両手を腰に当てて、少しばかり踏ん反り返って見せたが、玉木の表情は対して変わらない。
「そうですか。……相模先輩と、どういう関係なんですか?」
「あーうん。同じ班で一緒にご飯食べたり、お出掛けするようなチョー仲の良いマブダチって奴よ」
「……へー、そうですか」
 多少誇張した表現かもしれないが、少なくとも菅原にとって和都はそのくらい仲の良い相手だと思っているので間違っていない。
 しかしそこまで言ってようやく、玉木の表情がわずかに変化する。柔和そうな表情はそのままだが、細めた目に少しばかり暗い感情が見えた。
 やはり何か、良くないものを和都に対して持っている、と菅原は直感で感じる。
「相模はお前と顔も合わせたくないみたいだし、用件があるなら代わりにオレが聞いてやるよ」
「あぁ、結構です。相模先輩とは直接話がしたいんで」
 そう言って玉木は、三年三組の教室の奥へ視線を向けた。先ほどまで席に座っていたはずの、和都がいないことにようやく気付いたらしい。
「あれ」
 探すような視線が、教室内から廊下の先へと向く。
 背の小さな生徒が一人、一番奥の階段を降りようと曲がっていくのがちょうど見えた。
「……足が速いって話は本当だったんだなぁ」
 どこで聞いたのか、玉木がポツリと呟く。例の、和都に付き纏っていたという兄から聞かされていたのだろうか。
 菅原が訝しむように見ていると、不意に玉木が視線をこちらに向けた。
「あ、菅原先輩。『春日祐介』先輩ってご存知ですか?」
「え? そりゃあもちろん。同じクラスで、同じ班だし。春日とも相模と同じくらい仲の良いマブダチだけど?」
 意外な質問に驚いたが、菅原は和都の時と変わらずに答えてみせる。しかし、和都の時のように表情は変わらなかった。
「春日先輩は、何か委員に入ってたりしますか?」
「へ? なんだ知らねーの? アイツは泣く子も黙る、風紀委員長さまだぞ」
「ああ、じゃああの人が『春日祐介』先輩なんですね。……なるほどなぁ」
 何かを考えるように玉木が頷く。春日については名前だけ知っていて、顔は知らなかったらしい。
 自分の中の情報と何かしら照らし合わせているようだった。
「なん、なんだよ……」
「いえ、こっちの話です」
 玉木がにっこり笑う。顔は笑っているが、何を考えているのか分からない目元はそのままで、何ともいえず不気味だった。
「お話が聞けてよかったです、それじゃ」
 玉木はそう言うと、和都を追うように廊下の奥へ向かって駆けていく。
 なんとも得体の知れない一年だ。
 とはいえひとまず時間は稼いだし、奥の東階段を降りた先は保健室なので、きっと仁科がなんとかしてくれるだろう。
「相模、逃げ切れよ……」
 菅原は廊下を駆けていく玉木の背中を見ながら、小さく呟いた。

 ◇

「先生、匿って!」
 ガラガラと保健室のドアが勢いよく開くと同時に、和都が飛び込んできた。
 コーヒーを飲みながらくつろいでいた仁科は、切羽詰まった様子の和都に驚いて立ち上がる。
「どうしたんだ?」
「……た、玉木に追っかけられてて」
「はぁ?」
 息を切らせながら言う和都にただならぬものを感じ、仁科は鍵束を持つと、保健室の奥にある、隣のカウンセリングルームへと繋がるドアの鍵を開けた。
「とりあえず、こっち入ってろ」
「う、うん!」
 和都が薄暗いカウンセリングルームへ入ると、仁科は扉を閉めながら言う。
「閉めたらすぐ鍵を掛けろ。追い返したらこっちから開けるから、それまでじっとしてろよ」
「わかった、ありがと」
 肩で息をしながら不安そうに頷く顔に、心配するなよ、と笑ってからドアを閉めると、すぐに内側からガチャリ、と鍵をかける音が聞こえた。
 ひとまず息を吐いてその場を離れると、階段のほうからバタバタと駆けてくる、騒がしい足音が近づいて来る。
 仁科はカップに残っていたコーヒーを一気に飲み干すと、コーヒーメーカーの前に立った。
 そのタイミングで、案の定、騒がしい足音はそのままガラガラと、保健室のドアをノックもなく開ける。
「相模先輩いますかー?」
 そう言いながらドアを開けたのは、一年生のわりに背も体格も大きい『玉木』という黄色のネームプレートをつけた生徒。
「おいコラ一年、ノックもなく開けるな」
「あ、すみません」
「それと、特別室に入るときは学年とクラスや所属を名乗る決まりだろーが」
「ああ、そうでしたね。一年五組、玉木虎二郎です」
「……よろしい」
 仁科はそう言いながら、カップにコーヒーを注いで口をつける。
 ──こいつが『玉木』か。
 明るい髪色の癖っ毛に、柔和な表情。間違えたわりに全く悪びれる様子もなく、見た目と合わせて態度も妙にデカい。
 なんともクセの強そうな一年生だ。
「んで、なに? 相模に用事?」
「はい! ここに来てませんか?」
「いんや? 朝、観察簿を持ってきてからは来てないよ」
「なーんだぁ」
 息をするように嘘をついたが、玉木はガッカリした顔で項垂れる。
 こちらが匿っているのではないか、とは微塵も考えていないようだ。大柄で大人っぽい見た目の割に、言動はどこか幼く感じる。
「お前一年だろう? 相模と知り合いかなんかなの?」
 疑われていないのなら少し情報収集でもするか、と仁科は訊いてみた。玉木はああ、と顔を上げて答える。
「オレは直接の知り合いじゃないんですが、相模先輩、兄ととても仲が良かったみたいで」
「……へー、そうなんだ。じゃあ兄貴はここの卒業生か? お前に似てる『玉木』に心当たりないけどな?」
 毎年二百名以上は入れ替わるので、よく利用していたり、手のかかった印象深い生徒でないと流石に覚えてはいられない。こんなに癖のありそうな生徒の兄なら覚えていそうなものだが、本当に心当たりがなかった。
「ああ、兄はここで卒業してないんで。三年生の時に突然『違うことやりたいから』ってここ自主退学して、別の高校に入り直しちゃったんですよ」
「……ああ、なるほどね」
「そんで、今年から大学一年生やってます」
「ふーん」
 自主退学の話も、春日の言っていた話と合致する。
 やはり自分の意思でこの学校を去るタイミングを決めていた。本当に『違うことがやりたい』がために自主退学したのかも怪しい。
「……相模先輩のことは、兄からよく話を聞いてましたし、写真とかもたくさん見せてもらってたんで、オレも仲良く遊びたいだけなんですけど」
 玉木がどこか困ったように眉を下げた。
「仲良く、ねぇ。……会ってもらえないってことは、本人は嫌がってるんじゃないの?」
「何か勘違いしてるんですよ、先輩。兄は相模先輩のこと、すごーく気に入ってましたもん。オレといれば楽しかったことを思い出すはずだから、先輩とお近づきになってこいって兄に言われたんで」
 和都と玉木兄がどういう関係だったのか詳しくは聞いていないが、弟はやはり二人がどういう関係だったのかを知っているように見える。それも、普通に親しい間柄だったというのと違う方向で。
「……イジメってのは、他方にはいい記憶でも、された側は嫌なことってのはよくある話なんだけどね?」
 暴行のことを知った上で近づいてくるほうも問題だが、親しくなれと言った玉木の兄も相当に頭がおかしい。
「えー、そんなはずないと思うけどなぁ、楽しそうな声も聞かせてもらったし……」
「声?」
「あ、これは言っちゃいけないんだった。忘れてください」
 玉木が話しすぎてしまった、と言わんばかりに両手で口を塞いだ。
「ここにいないなら、他を当たりますねー」
 そう言って玉木はにっこり笑って保健室を出ていく。
 ──なんとも食えない奴だ。
 仁科は深く息を吐くと、カウンセリングルームに繋がる扉のほうへ足を向けた。
 しかし、廊下のほうから何やらガチャガチャとドアノブを乱暴に動かす音が聞こえてきて、仁科は慌てて廊下へ出る。
 この辺りで扉にドアノブのある部屋は、隣のカウンセリングルームしかない。
 廊下へ出てみると、案の定、玉木がカウンセリングルームのドアを開けようとしていた。
「ちょっと、何してんの?」
「あ、先生。いやぁ、ここにいないかなぁって思ったんですけどぉ」
 そう言いつつも、玉木はドアをガチャガチャと動かし続けている。
「……そこはカウンセリングルームだから、普段から施錠してあるよ。俺の許可か、スクールカウンセラーが来た時じゃないと開けない部屋」
「なーんだ、そうなんですね。じゃあここじゃないのか」
 仁科の言葉に、玉木はようやくドアノブから手を離した。
「じゃあ、他当たってみまーす」
 やはり玉木はにっこり笑うと、足早に廊下を駆けていく。
「……油断も隙もないな」
 反対の端へ走っていく玉木の背中を見送って、仁科は保健室へと戻った。

 保健室の奥にある、カウンセリングルームへと繋がる扉の鍵を開けて中に入ると、あるはずの人影が見当たらなかった。
 明かりをつけていない、ブラインドをかけた窓越しにわずかに光が入るだけの薄暗い室内には、ソファとテーブル、書類をしまう棚くらいしかない。
 仁科は後ろ手にドアを閉めてから、念の為に鍵をかける。
「相模?」
 そっと呼びかけると、ソファの影に隠れていたのか、その向こう側からそっと和都が顔を出した。仁科は和都の顔を見て、少しだけホッと息をつく。
「アイツ、行っちゃったよ」
「よかった……。ドアガチャガチャされた時どうしようかと思った」
 どうやら玉木がドアノブを回していた時に、思わずソファの影に隠れたらしい。
「普段から鍵はしてあるけど、まさかそっちに行くとは俺も思わなかったわ」
 ひとまず横長のソファに仁科が腰を下ろすと、和都もおずおずと隣に座ってきたので、いつものように肩を抱いた。すると凭れ掛かるように、頭をすり寄せてくる。
 和都は基本、学校ではあまり自分から甘えてこない。しかしここは人目のない場所だからだろうか、こうやって自分からくっついてくるのは珍しかった。
「予鈴鳴るまで、ここにいたほうがいいだろうな」
「……いてもいい?」
「うん、使う予定入ってないし、大丈夫だよ」
 そう言って、いつものように頭を撫でる。しかし、やはりまだどこか身体が強張るようだった。
 甘えたい気持ちを、蒸し返された恐怖が邪魔をしているのだろう。
 ──こればっかりは、な……。
 時間をかけて、恐怖が薄れるのを待つしかない。
 仁科は仕方なく隣の部屋へ行こうと、立ちあがろうとしたのが、腕をぐいっと引っ張られて、再びソファに戻された。
「どうした?」
 腕を掴んだ和都の方を見ると、困ったような、泣きそうな顔でこちらを見ている。
「……キス、したい」
 震える唇を懸命に動かして、そう言った。
「学校、ですけど」
「したい」
「いや、でもお前……」
 怖いんじゃないの?
 そう聞くよりも早く、ネクタイを引っ張られていて、ぎゅっと目を閉じた彼に唇で唇を塞がれていた。
「……お前ねぇ」
 掴まれていたネクタイを解放されて、ようやく顔を離しながら仁科は呆れるように息を吐く。学校でこういうことをすると、普段なら怒るはずなのに、いったいどういう風の吹き回しだ。
 そう思いながら和都を見ると、泣きそうな顔のままで。
「怖いけど、したいし、触ってほしいだもん!」
 顔を真っ赤にして、震えながら、和都がそう言って自分の手を頬に当てさせた。
 ──ああ、そうか。
 昨日も、今朝も。怖がっているからと触れるのを遠慮していた。
 けれどそれは彼にとって、愛情を注いでもらえないのと同じような、拒絶されてしまったような気持ちになったのかもしれない。
 彼の中で、自分との触れ合いはそのくらい大事なことになっていたのだ。
 頬に触れた手の指で、大きな目の端から小さく溢れていた涙を拭う。
 怖いけど、欲しいもの。
 恐怖すら超えるものを、与えられるのは自分だけ。
「……お前のその『怖い』っていうのさ。お前ちっこいし、上から来られるのが怖いんじゃないかと思うのよね。だからさ──」
 仁科はソファに座り直すと、和都を抱き上げて自分の膝の上に乗せる。
「こんな感じで、お前が上から見下ろす形なら、いーんじゃない?」
 ポカンとした顔で和都がこちらを見下ろしていた。が、すぐにあっと気付いて、嬉しそうに笑う。
「……うん、平気、かも」
 そう言うと、和都のほうから首周りを抱きしめるように腕を回し、唇を合わせてきた。仁科は小さく開いた隙間から自分の舌を差し入れ、内側で震える小さな舌と絡める。
 ふ、ふ、と小さく漏れる息が甘く香り立つようだった。
 和都が自分から懸命に舌を動かし始めたので、仁科は腰を支える手と反対の手でゆっくり学ランのボタンを外す。内側のシャツのボタンまで外し始めたところで、和都がようやく気付いた。
「あ、ちょっと、せんせ。がっこ……」
 真っ赤な顔で唾液の糸を引きながら、躊躇いがちに言われたけれど、期待をしているようにしか見えない。
「触ってほしがったのはお前でしょー?」
 そう言いながら、シャツの胸元を広げ、細い首筋に舌を這わす。
 ビクビクと肩を震わせ、溢れそうになる吐息を堪えているのか、抱きつく腕の力が強くなった。
「そう、だけど。このあと、まだ授業……っ」
 続く言葉を発せずに、和都の口から熱を逃すような声が零れる。
「知ってる知ってる」
 だってここは学校で、まだ昼休みだ。
 本来ならこんな場所でしていいことではないけれど、これは不安に駆られる彼の心を慰め、癒すための治療に近い。
 和都にとって、自分との触れ合いがそれくらいに大切なことになっているのが、無性に嬉しかった。
「……薄くなってるね」
 インナーシャツを引っ張ってようやく見える位置にある、白くて薄い胸元につけたキスマークを見て仁科が呟く。春休みにつけたばかりのはずだが、新学期も始まるからと軽めにしておいたせいか、やはり早々に消えかけていた。
 和都に自分のものだと自覚させ、安心してもらうための痕跡。
 仁科は薄くなった痕のすぐ近くに唇を当てると、そのままキュゥっと吸い付いた。
「あ……っ」
 頭上から漏れ聞こえる声が上擦っている。
 この声を聞けるのは、きっと自分だけ。
 仁科が和都の胸元から唇をゆっくり離すと、白い肌の上に赤紫色の花のような楕円の痕跡ができていた。
 それを確認すると、仁科は和都の首筋に頭を預けるようにして、小さな身体全体をぎゅっと抱きしめる。
「──過去にされた、嫌なことなんて忘れなさい」
 きっと、完全に忘れることは難しい。
 去年の夏休み、まるで何でもないことのような口ぶりで話してくれたけれど、あの時の小さな肩は冷たく震えていた。
 だからせめてその傷を、違う何かで埋めて、隠して、遠ざける手助けくらいはしたい。
「これから寝る時は、今日ここでされたことでも思い出してろ。……な?」
 耳元に唇を寄せて囁くと、首周りまで赤くした和都が小さく頷く。
 きっとこれでしばらくは、悪い夢をかき消してくれるに違いない。
「──あと、続きは今度、うちに来たときな」
 そう言って腰を、下腹部に押し付けるようにして引き寄せた。
 ちょうどお互いの中央、それぞれのスラックスの股間の辺りが硬く大きく膨らんでいたので、仁科は分かりやすく擦り付ける。すると、その意味に気付いた和都が、声にならない声を上げた。
「……っ!」
 調子に乗って、少し煽りすぎたらしい。
 もしここが自宅なら、いつものように和都の内側に溜まった熱を発散する手伝いをするところだ。
 けれどここでは、リスクが高い。
「さすがに学校ではしないよ」
 仁科は真っ赤に染まった和都の額に軽く口付ける。
「じゃあ、落ち着いたら出ておいで」
 そう言って和都を膝の上からソファへ下ろすと、よほど恥ずかしかったのか、膝を抱えたような体勢で、そのままズルズルと横になってしまった。
 多少は調子を取り戻したらしい。
 仁科はそんな和都の頭を優しく撫でると、一人で保健室の方へと戻った。