長編

🗞️K新聞の禁忌欄

横峯市内で体験した「やってはいけない話」を集めています。

地方紙K新聞が運営するメディアサイトの若手ライター成瀬は、夏向けのホラー特集「K新聞の禁忌欄」の企画リーダーに抜擢された。横峯市東部エリアから募集した怖い体験や、地域の“やってはいけないこと”を取材・検証して記事にしていく企画。 たくさんの投稿の中から記事化を進めていくにつれ、編集部や成瀬自身の身の回りで不可解な現象が発生するようになりーー。 怪談蒐集からはじまる連作形式の長編ホラー。 *第2回創元ホラー長編賞に参加中の作品です*ホラー / ミステリー / 現代 / 怪談蒐集

第十話 厄囮の家

【壊してはいけない家を壊した話】
 ライター:ほたる

「これは祖父から聞いた話です」

 祖父は土木工事を生業にしていて、戦後は街中の道路を整備し、古い家を壊し、新しい家を建てるための更地にするなど、そういった仕事をしていました。
 その仕事の一環でとある町にやってきた祖父は、ある古い家を壊すよう依頼されたそうです。
 その家は、山のほうへ続く雑木林の奥まったところ、細い農道からも少し離れていて、家があるとは思えないような場所にひっそりと建っていたそうです。
 家というには少し小さくて粗末で、農具などを保管しておく倉庫にしては大きく、一見すると大きなお屋敷の敷地内にある、離れのようなイメージの建物。
 ひとまず中を見てみようと思った祖父が玄関へ向かい、引き戸を開けようとすると開きません。古くて建て付けが悪いのだろうか、と玄関をよくよく見ると、大きな木杭が打ち込まれていて開けられなかったそうです。
 不思議に思った祖父は建物の周りをぐるりと見てみました。窓があったので近づいてみると、窓ガラスははめ殺しになっており、その窓の外側には鉄製の柵が取り付けられていました。
(なんだか罪人を閉じ込めておくための、牢屋のような家だなぁ)
 祖父はそんな印象を思ったそうです。
 建物の内側がどうなっているのか気になった祖父は、閉じられているカーテンの隙間をみつけ、目を凝らしてなんとか中を覗きました。
 見える範囲では、机と椅子の脚くらいしか見えなかったそうです。
 玄関も閉じられ、窓も開けようがない小さな家。
(中には誰もいないようだ)
 そう思った、次の瞬間、室内に人間の足が見えたそうです。
 痩せた裸足の足が二本、木の板を敷いただけの床の上に立っていたんです。
 さすがに驚いて、飛び退くように窓から離れました。
 恐る恐る近づいてもう一度覗くと、そんなものは見えません。
 幻覚だと思ったそうですが、祖父は念の為、仲間たちと一緒に玄関ドアを壊し、建物の中を一通り見て回ったそうです。
 中には窓から見えた机と椅子以外、たいした家具はなく、引っ越しの途中で作業を辞めて放置したような、到底人が住んでいたとは思えない様子だったそうです。
 人もいないし、このまま壊しても問題なさそうだ、と判断をした祖父たちが、早速作業に取り掛かろうと準備をしていると、一人の老婆がやってきて、こう言ったそうです。

「その家に手を出してはならん!」

 老婆はそれから毎日のようにやってきて、家の前に立ち塞がりました。下手に壊そうとするとその老婆にケガをさせてしまうので、二進も三進もいきません。
 祖父としては仕事である以上、作業をしないわけにもいかないので、力尽くでなんとか老婆を家から引き離し、祖父は仲間たちと一緒にその家を壊して更地にしたそうです。

「何が起きても知らんぞ!」

 家を取り壊す様子を最後まで見届けた老婆は、そんな捨て台詞を吐いて去っていき、その後現場にやってくることはありませんでした。
 老婆の言葉に怯えながら、家のあった場所を綺麗に均し、周囲を囲んでいた雑木林も切り拓いていきます。けれど、その後たいして大きな事故も特になく、依頼通りに整地し終える頃には、近くの山容が綺麗に望めるようになり、農道から山へ向かう道が分かりやすくなりました。
 なんだ、取り越し苦労だったか、と無事に工事を終えて笑い合ったその日の夜。
 祖父は奇妙な夢を見たそうです。
 木でできた家とも納屋ともいえるような、奇妙な場所に閉じ込められていました。すぐ近くに出入り口はあるものの、開きません。窓も開けられないように、はめ殺しになっていて、ガラスを割って出ようにも外に鉄の柵がはめてあるので、逃げ出すことは無理そうです。
 祖父はすぐに、壊したあの家の中にいるのだと分かりました。
 どうしたらいいのかと悩んでいると、部屋の隅に黒いワンピースを着た女の人が立っていることに気付きました。女は裸足で立っていて、祖父が存在に気付いたことが分かったのか、無言で大きな大黒柱を指差したそうです。
 部屋の壁と壁の間に、めり込むようにそびえ立つ、真っ黒なケヤキでできた黒い柱。
 壊したあの家にもあったような気がするな、と眺めていると、その柱に真っ白な蝶が静かに止まっていました。
 明かりのない薄暗い室内で、まるでぼんやりと光を放つように存在し、ゆっくりゆっくり、呼吸をするように羽を動かしている、美しい蝶でした。
 祖父はぼんやりと眺めていましたが、気付けば手に針を握っていました。どうやらこの蝶の細長い胴に針を刺して、殺さなければいけないようだ、と悟ったそうです。
 祖父は恐る恐る針を構え、羽を揺らす以外に動く様子のない蝶の胴に、ぶすり、と刺しました。虫を潰した時のような嫌な感触が指先から伝わり、小さく身震いしていると、不意に窓の外から叫び声が聞こえてきました。
 驚いて窓に駆け寄り、窓の外を見てみましたが、詳細は分かりません。しかし、その窓からはギリギリ見えない位置で何かが起きたらしく、地面にゆっくりと赤い血が流れてくるのだけが見えます。
 祖父は慌てて開かないドアを揺らして外に出ようと試みますが、やはり出ることはできません。

「お前が殺した」

 不意に女が囁くようにそう言いました。女のほうを振り返ると、変わらず大黒柱を指差しています。
 大黒柱のほうを見ると刺し留めたはずの蝶が消え、一匹の大きなセミが、なぜか鳴かずにおとなしく留まっていました。そして自分は、気付けばまた針を持っています。針はさきほどよりも少し長くて太くなっていました。
 どうやらまた刺し殺さなければいけないようです。
 自分が外に出るには、やらなければいけないようだが、虫を殺せば誰かが外で殺される。
 散々悩んだ末に、祖父はセミを針で刺し殺しました。そしてまたすぐに、外から断末魔のような叫び声が聞こえます。
 祖父は思わず耳を塞ぐようにして、その場にしゃがみ込みました。

「お前が殺した」

 塞いだはずの手をすり抜けるようにして、女の声が耳に入ってきたそうです。
 ハッとして女の方を見ると、再び大黒柱を指差していました。
 大黒柱を見ると、そこには小さな小鳥が留まっていて、祖父の手には大きな釘が握られています。
 祖父は昔、小鳥を飼っていたことがあり、留まっている小鳥がその時の鳥にあまりにもそっくりで、殺すことができませんでした。
 泣きながら「できません!」と叫ぶと、背後から「チッ」と大きな舌打ちが聞こえ、そちらを振り向いたところで目が覚めました。
 目が覚めると祖父はありえないほどの高熱を出しており、一時は命が危ないほどの状態になったそうです。
 数日寝込んでなんとか回復しましたが、祖父は片目を失明し、右腕が動かなくなりました。
 さすがにコレは何かがあるぞ、と祖父が仕事仲間たちに連絡したところ、多数の人間が熱病で苦しみ死んでおり、生きていた者もどこかしらに重篤な障害を残していたそうです。
 祖父は身体が動かせるようになってから、再びあの町を訪れると、あの家を壊すなと忠告していた老婆を探し出し、あの家について尋ねました。
 すると老婆は、あの家が『厄囮の家』だったことを教えてくれたそうです。

 それは戦争が起こるよりも以前の話。
 昔、その辺一帯は元々小さな村だったのですが、病気が流行ったり、大人数が亡くなる火事が起きたり、なにかと悪いことが立て続けに起きていたそうです。
 このままでは良くないと、村で神事などを行う巫女に相談しました。すると巫女は『厄囮の家』を建てることを提案したそうです。
『厄囮の家』というのは、悪いものが集まりやすい位置に家を建て、その家にあらゆる災厄や不幸を肩代わりしてもらうという方法です。
 その家を建てる場所も、巫女が占いによって選出したのですが、そこは村でも一番強欲な地主の土地でした。
 地主は最初こそ「そんな不気味なものを自分の敷地に建てるなんて嫌だ」と反対していたのですが、村中の人間から押し切られ、しぶしぶ建てることを許可したそうです。
 無事に『厄囮の家』が立ち、玄関を閉じて誰も入れないようにした日の晩。地主は人目につかないように巫女を拉致すると、こっそり開くようにしておいた裏口から中に入り、意識を失った巫女をその家に運び込んで閉じ込めてしまったのです。
 巫女を運ぶために開けられていた裏口も、地主が外からしっかり閉じてしまったため、中から出ることはできません。そんな家の中で目覚めた巫女は、水も食料もなく、すっかり痩せ細ってそのうち死んでしまいました。
 さらにこの地主は意地の悪いことに、巫女の子どもを遠縁だなんだと理由をつけて引き取り、こんなことを言って育てたそうです。
「母親はお前が邪魔だから、お前を捨ててよそに行ったんだ」
 子どもは地主の家で酷くイビられて育ち、学校で自殺してしまったそうです。

「そんな災厄と怨念がつまった家を壊したんです。祖父はまだ、命があっただけよかったのかもしれません」
「そんな酷いことをした地主は、その後どうなったんでしょうか?」
「晩年、おかしな言動を繰り返すようになり、そのうち心臓麻痺で亡くなったと伝わっています」
 ただでさえ村中の災厄を集める場所で、巫女を殺したのです。きっと相当な恨みつらみを持った巫女の幽霊に、苦しめられたのではないでしょうか。

「現在その『厄囮の家』があった土地は、どうなっているんでしょうか?」
「実は、祖父たちが更地にした後、新しく家が建てられたらしく……」
「えっ、そんな忌まわしい土地なのに?」
「『厄囮の家』のことは、戦後の混乱もあって知っている人は少なく。祖父たちの工事を邪魔していた老婆が同じように反対したものの、そんなものは迷信だと跳ね除けられたようです」

 なんでも、地主の親戚にあたる人物がその土地を相続し、広々とした立派なお屋敷を建てたそうです。
 市町村合併もあり、他所から移り住む人も増えましたが、昔からいる一部の人たちは、祖父たちに起きたことを知っていたので「あんな縁起の悪い場所によく住めるものだ」と囁きあっていたとか。
 しかし数年後、家主がお手伝いさんを殺して押し入れに閉じ込めるという凄惨な事件が起こり、その後すぐに一家は離散。屋敷はすぐに潰されて、また更地になったそうです。
 この土地は現在もまだ、あざみ区内のどこかにあるそうですが、詳しい場所については教えてもらえませんでした。

 ◇ ◇

『厄囮の家』で殺された巫女。
 投稿者の祖父の夢に出てきた女の姿といい、もしかしたら、その巫女が黒いほうの山女なのではないだろうか。
 そして山女は奪われた子どもを探し回って山の中を彷徨い、子どもは山ではない学校で自殺してしまったので、出会うことができないまま――。
 ――なんだか可哀想だな。
 死んでもなお、すれ違ったままでいるなんて。
 だからこそ山女は、あんなにも必死に我が子を探しているのだろうか。
【山から帰ってきた行方不明の人を信じてはいけない】であったように、山女が子どもに執着するようになったのが戦前からであれば、時期もピッタリ合う。
 そしてそれ以前の伝承にあった、人を攫うだけだったという山女は、以前奥沢が言っていたようにクマだった可能性がありそうだ。
 ――残る問題は、赤いほうの山女だな。
 黒い山女のルーツは『厄囮の家』から見えてきた。しかし、その女の服の色が変わってしまった理由が分からない。
 二十年前から赤い服になったのであれば、それより以前に何かしらが起きたことになるはずだけれど。
「そういえば、屋敷が潰されて更地になった後、『厄囮の家』の跡地はどうなったんでしょうか」
 成瀬が考えをまとめている横で、一緒に取材に来ていた辻堂が投稿者に尋ねる。すると投稿者は、ああ、と何でもないことのように答えた。
「確かその後は、何も知らない外部の人がその土地を買ってしまって、賃貸アパートを建てたそうですよ」
「アパートを!?」
「ええ。二階建ての木造アパートです。でも、あんまり人が居つかなかった上に、死人も出たとかで、今は募集もせず放置しているそうですけど」
 成瀬と辻堂は目だけで視線を合わせた。
 嫌なことが重なるように、よくない点は繋がるものらしい。
「……その『厄囮の家』が以前建てられてた場所って、分かりますか?」
「ええ、分かりますよ。そのアパートもまだ、残ってますし」
「そこまで案内をお願いしてもいいですか?」
「いいですよ。ここから近いんで、歩いて行きましょうか」
 快く案内を引き受けてもらえたので、話を聞いていたカフェを出ると、成瀬と辻堂は投稿者が「こちらです」と歩く後ろをついていく。
「……どうします? これで例の事故物件アパートじゃなかったら」
「私は絶対そうだと思うから、ブルーエールのスペシャルコーヒー賭けるわ」
 ブルーエールは、K新聞社ビルの近くにある、ちょっと高めで美味しいと評判のカフェだ。中でも一番高いスペシャルコーヒーは、編集部内でも半年に一度のご褒美ドリンクにしたい、と言われるほどに絶品の一杯である。
「俺もそうだと思うほうにスペシャルコーヒー」
「どっちも同じなら賭けにならないじゃない!」
 二人はコソコソとそんな話をしながら、お店や人通りも少し寂しい町内を歩いていった。
 九月に入ったというのに暑さはまだまだ厳しく、歩いているだけで汗が噴き出す。
 歩いているうちに周囲の建物が減っていき、景色もだんだんと山へ近づいていった。
 そうして見えてきたのは、山へ繋がる道路に近い、妙に開けた場所に立つ木造二階建ての、今にも崩れてしまいそうなほどに古びたアパート。
「……ここが?」
「ええ、そうです」
 そこはまさに【事故物件を映した動画を見てはいけない】や【事故物件の前で立ち止まってはいけない】、そして過去に成瀬自身が行った『度胸試し』の『幽霊アパート』である、事故物件のアパートだった。
 夕暮れ空に焦げるような色合いの大きな山影と、それを背景にして佇むアパートの姿は、なんだか妙に異質なものに思える。
「そういえば、特集記事で何度か出てきてた事故物件アパートって、ここの話ですよね?」
「……ええ、実はそうなんです」
「やっぱりですか。私も祖父から話を聞いて、だからこのアパートは『事故物件』なんかになったんだなぁ、って納得しましたよ」
 投稿者はどこか悍ましいものを見るように、古びたアパートに視線を向ける。
 山女の伝承、赤い女、全てがこのアパートに繋がってしまった。
 これ以上用がなければこれで、と投稿者はそそくさと帰っていき、残された成瀬と辻堂は改めてアパートを眺める。
「……帰り、ブルーエールのコーヒー飲んでから帰りましょうか」
「そうね、そうしましょう」
 見た目だけなら、やはりただの古い木造の二階建てアパートだ。
 成瀬は【事故物件の前で立ち止まってはいけない】の記事を書く際、一度ここを訪れているので、大人になってからやってくるのは二度目になる。
「前に来た時も思ったけど、妙に暗いアパートよねぇ」
「そうですね」
 前回来た時は昼間の明るい時間帯で、その時にも思ったのだが、アパート全体が異様に暗い。なんだかその辺り一帯だけ、日差しを遮る見えない何かがあるかのように、妙に陰って見えた。
 夕暮れ時の今なんて、それこそ闇に沈んでしまいそうなほどに暗い。何かしらの瑕疵かしがある物件というのは、そういうものなのだろうか。
「一応、写真撮っておこうか」
「はい」
 アパートに近づき、周辺のほとんど手入れもされず放置された、かつては芝生が覆っていたであろう敷地を含めて写真を撮る。
 背景に夕暮れ空と七摘山の影が映えて、恐ろしいような美しいような、なんとも言えない絵になってしまった。
 その奇妙な光景に、成瀬は不思議と懐かしさを覚えた。
 確かに小学生の頃はこの街に住んでいて、このアパートにも『度胸試し』と称してやってきていたのだから、懐かしさを感じても不思議ではない。
 でも、こんなに暗くなるまでここにいた記憶はないし、その頃住んでいた祖父母の家がある場所は、ここから小学校を挟んで向こう側にある。
 ――なんで、懐かしいんだろう。
 赤い空に波打つ山容は、確かに故郷の風景だ。
 でもそれはもっと遠くから、祖父母の家から見ていたので形は少し違って見えるはず。
 なのに、まさしく同じこの景色が、頭の中の知っている風景として認識される理由が分からない。
「成瀬くん、大丈夫?」
 辻堂に肩を叩かれ、成瀬はハッとして我に返る。
「あ、すみません」
「どうしたの、なにかあった?」
「い、いえ。ただ……妙に、懐かしいなって思っちゃって」
 アパートのほうを見つめながら成瀬がそう言うと、辻堂はキョトンとした顔をした。
「この町の出身なら、当然のことなんじゃないの?」
「で、でも。この辺は本当に、小学生の時も例の『度胸試し』以外ではほとんど来なかったし、前回昼間に来た時は、そんなこと思わなかったんですよ? なのに夕暮れを背景にした光景を見ただけで、急に懐かしくなるなんて変じゃないですか」
 なんとも言えない奇妙な感覚のせいか、成瀬が焦ったようにまくし立てる。
 それでも辻堂は冷静なままだった。
「成瀬くん落ち着いて。自分が夕方に来た覚えはなくてもさ、この町に住んでたなら、見たことのある光景なんじゃないかな」
「でも、そんなはず……」
「それに成瀬くん、小学校に上がる前のことはあんまり覚えてないんでしょう? まぁ私も、大昔すぎてあんまり覚えてはいないけど」
 確かに、自分が覚えていないだけで、見たことがある可能性はある。
「あとはほら、アルバムとか。昔お父さんお母さんが撮ってくれた写真とかに、似たような景色があって、それを覚えてたりするんじゃない?」
「アルバム……」
 昔はよく写真を撮ってくれていたらしく、父が亡くなった際、父が住んでいた部屋からかなり大量に出てきた。それらを整理し、ほとんどは祖父母が遺してくれた七摘町の実家に置いてあり、何冊かは今の家に引っ越しをする時に持ってきている。
 ふと、押し入れの奥にしまっていた、アルバムを詰めたダンボールのことが頭に浮かんできた。
「……そうか、そうですね。それなら、ありそうです」
 自分の中に記憶はなくても、写真という記録はまだ存在している。
 ようやくいつもの落ち着きを取り戻した成瀬をみて、辻堂は少しホッとしたように息を吐いた。
「じゃあそろそろ、美味しいコーヒー飲んで帰ろう」
「はいっ」
 返事をした成瀬はもう一度だけ、アパートの方を振り返る。
 先ほどよりも濃い柿色に染まる空に、暗い建物と山影が飲み込まれそうな夕景を少しだけ見つめて、成瀬は辻堂の後を追って足早に歩き出した。