
第十六話 理由
「お忙しいところ、ご足労いただいてすみません」
成瀬家の捜索から二日後の午前中、K新聞社ビルの目と鼻の先にあるカフェで、成瀬と辻堂は山北なつみと対面していた。
「いいのよ。ちょうど近くに用事があったから」
そう言ってコーヒーを飲みながら微笑む山北は、五十代くらいの柔和で上品な女性だった。
「私のお話した体験談について、確認したいことがあるそうだけど」
久地は頼んでいた通り、詳細は伝えずに会う約束だけ取り付けてくれていたらしい。
「はい。……その、教えていただいた体験談で、崖から落ちたご友人のお名前を、どうしてもお聞きしたくて」
辻堂が申し訳なさそうに切り出すと、山北は片手を頬に当てて困った顔をする。
「……ごめんなさい。久地さんにも言ったけれど、名前は言えないの」
「色々なことがあったから、ですよね?」
成瀬が先回りするように尋ねると、山北は目だけで頷いた。
「絶対にどこかに公表するようなことは致しません! それでも、ダメでしょうか?」
辻堂が必死になって訴えるが、山北は怒るわけではなく、なぜか悲しそうな顔をする。
「そういう問題ではないのよ。言いたくても言えない、というほうが正しいかしら」
成瀬は山北の、どこか切ないその表情だけで確信した。
おそらく名前が何かしらのトリガーで、色々なことに繋がってしまう何かなのだ。
「――では、こちらが予想している名前をお伝えして、合っているかどうかを答えて頂くことは可能ですか?」
これなら、山北自身が名前を言う必要はない。
「もしかして、なにか心当たりが?」
意外な表情をする山北をまっすぐ見て、成瀬は静かに告げる。
「その人の名前は『羽沢まどか』ではありませんか?」
名前を聞いた山北は目を大きく見開いて、まるで静かな岩にでもなったように、ピタリと表情を強張らせた。
「それを、どこで……?」
震えるような声でようやく返ってきた言葉に、成瀬は少し俯いて答える。
「その人は、俺の母なんです」
「まぁ……なんてこと!」
山北は両手で自分の顔を覆うと、机に突っ伏してしまった。
驚いた辻堂が向かいに座る山北の側に周り「大丈夫ですか」と背中をさする。
「ではやはり、崖から落ちたご友人というのは……」
座ったままの成瀬が改めて尋ねると、目の端に涙を浮かべた山北が顔を上げて答えた。
「ええ。……『羽沢まどか』さんで、合ってるわ」
母の名前を言い終えた山北が、突然ハッとして辺りを見回し始める。しかしすぐに、どこかホッとしたように胸を撫で下ろした。
「どうされました?」
妙に不可解な行動をする山北に、成瀬の隣の席に戻った辻堂が尋ねると、彼女はキュッと口を結び、それから意を決したように口を開く。
「実は、まどかさんの話をすると、彼女が近くにやってきてしまうの」
「え?」
意味が分からず戸惑う成瀬と辻堂に、山北は自分の両手を胸の前でギュッと握りながら、悲しそうな顔で話し始めた。
「これは、忘れたくても忘れられない出来事なのだけど……」
◇
【非公開:赤い女の話をしてはいけない】
語り:山北なつみ
私は数十年前、ある登山愛好の社会人サークルに所属していました。
社会人サークルといっても、時間の合う人たちで適当に日程を決めて、登山やハイキングなどに行くというだけの、少しゆるい雰囲気のある集まりです。私の周囲には山登りをするくらい自然が好きだという人が少なかったので、友達作りが目的で参加していました。
それにほら、バスや宿泊施設って、大人数や団体だと割引なんかもされてお得でしたし。
まどかさんと仲良くなったのは、そのサークルがきっかけでした。
話も合うから、よく一緒に登山やハイキングにも行っていたんです。
それからしばらくして、彼女は結婚し、出産しました。
結婚してからも、サークルで行く登山には来ていたんですが、さすがにお子さんを産んだ後はなかなか難しくて。出産されてから二年くらいは、手紙や電話でやりとりをするくらいの交流でした。
そんなある日、彼女から『ハイキングからでいいから、また山登りを再開したいので一緒に行きませんか?』と連絡があったので、私はすぐに了承しました。
ハイキング場所は、彼女の住んでいるところからなるべく近いところにしようと『七摘山』を選びました。彼女以外のメンバーは、私も含めて住んでいる場所が少し遠方なので、宿泊施設に泊まることになります。でも七摘山ならまどかさんは泊まらずに参加できますし、下山したらすぐお子さんの待ってるお家に帰れるから、と決まりました。
そしてハイキング当日は、以前お話しした通りです。
行きは順調でしたが、帰りに本人の不注意から、まどかさんが崖から落ちてしまって……。
救助隊を呼んだりする大騒ぎでしたので、本当に大変でした。
ハイキングから数日後、この件でどうして事故が起きたのかについて、サークルのリーダーから入院中のまどかさん以外、一緒に行ったメンバー全員が呼び出され、事情を聞かれた後にひどく叱られました。
バスや宿泊施設の申し込みをサークル名で行っていたので、事故を起こしたサークルとして、苦情でも入ったのかもしれません。
そして今回の件を理由にまどかさんは除名になってしまい、私たちはそのことを告げるために、病院へお見舞いに行ったんです。
病室にいたまどかさんは、思っていたよりも元気そうでホッとしました。
でも、なんだか違う人物のようにも見えたんです。
サークルの除名についても、あんなに楽しく活動していたのに「ああ、そうなの」とアッサリしていたし、遊びに来ていたらしいお子さんを、ずっと抱っこしたまま片時も離そうとしなくて。
ハイキングで話していた時「会う機会があったら、ぜひ抱っこしてね」と言っていたのに、すっかり忘れてしまっているようでした。
ぐずって離れようとするお子さんを、強い力で押さえつけるように抱きしめていたので、なんだか怖いな、と思ったのを覚えています。
その後、退院したらしいと風の噂で聞き、何度か手紙を書いてみましたが、返事がくることはありませんでした。
それから二年くらい経って、私は変わらず例の登山サークルに所属していましたが、その集まりがあった際に妙な噂を聞いたんです。
「『羽沢まどか』の話をすると、赤い服を着たアイツが出てくる」
詳しく聞いてみると、そういう集まりの場で彼女について話していると、お店の別室や窓の外などから、赤い服を着たまどかさんが、こちらをジッと窺っていることがあるんですって。
亡くなったなんて話は聞いていませんでしたし、何かの間違いだと思ったんですが、その日も本当に彼女が現れたんです。
お開きの時間になったのでみんなでお店を出ると、少し離れた道路沿いにある自動販売機の陰から、ジッとこちらを見ている赤い服の女性がいました。
私、信じたくなくて。
話しかけようと思って近づいたんですが、すぐに自動販売機の後ろに隠れてしまったんです。
すぐに追いかけて隠れた場所まで行ってみましたが、そこには誰もいませんでした。
まどかさんのその後について、誰か知らないか聞いてみたんですが、彼女は退院後に精神がおかしくなってしまったようで、まどかさんの旦那さんから「会わないほうがいい」と言われたそうです。
幽霊やお化けに詳しい知人によれば、生き霊のようなものじゃないか、とのことでした。サークルが大好きだったから、自分の話をしていると思って、意識だけが飛んできたんじゃないかって。
その後私は結婚して県外に引っ越したので、それからサークルやまどかさんがどうなったのかは分かりません。
ただ、県外にいる時に一度だけ、サークルメンバーで仲の良かった子から電話があったんです。
「『羽沢まどか』さんは亡くなったらしい。でも、彼女の話はしないほうがいいよ。名前だけでも危ないかも。……未だに来るからね」
そう言われました。
それからもう何十年も経って、夫の仕事の都合でまたこちらに戻ってきたんですが、パートで入った職場で怖い話が話題になった時に『赤い女の話』を聞いたんです。
ただ、妙な尾ひれがついたようで、本当のことと少し変わっていました。
『赤い服を着て山に登った女が、足を滑らせて崖から落ちて死んだ。この女が誰なのか、話と一緒に名前を出すと、首の曲がった状態の赤い服の女が現れて、物陰から見ている』
これを聞いた時に、まどかさんのことを思い出したんです。
彼女はまだ、自分の話をしている人のところにやってくるのかもしれません。
◇
「名前をお話しできなかったのは、これが理由なんです。ごめんなさいね」
話し終えた山北は、深々と頭を下げる。
赤い女の話は、禁忌欄の投稿でいくつか似たようなものがあった。
話すとやってくる、所謂感染系の『赤い女』の話は聞いたことのある話がいくつかあったので、掲載候補から外したのを覚えている。
――それも、母さんだったなんて。
いろんなところで見聞きする怪異も、こうして一つの何かが、どんなふうに目撃されたかが違うだけだったりするのだろうか。
「いえ、大丈夫です」
成瀬は目を伏せて首を横に振った。
名前を言わなかったのは、きっと本当に起きてしまう、恐ろしくも悲しい怪現象を体験させたくないという、山北なりの配慮だったのだろう。
「――それにしても、いただいた名刺のお名前が『成瀬』だったから、気づかなかったわ。あなたが『蛍ちゃん』だったなんて」
「母が亡くなった後、父の実家で暮らすにあたって、父の旧姓に戻したらしくて」
「そういえば、結婚する時に苗字を変えたくないから、旦那さんに苗字を変えてもらったって言ってたわね」
山北が最初に挨拶をした時に彼女に渡した、『成瀬蛍』と書かれた名刺をジッと見つめて言った。
「……俺は、山北さんと一度会っていたんですね」
彼女の話の中に出てきた、羽沢まどかに抱きしめられていた赤ん坊というのは、自分以外にいない。
「そうみたいね。彼女はずっと『蛍ちゃん』って言って離そうとしなかったから、小さなあなたを抱っこすることはできなかったけど」
どこか悲しそうな顔で山北が小さく笑った。
それから両手で握りしめていた『成瀬蛍』の名刺をテーブルの上にそっと置くと、悲しそうな表情のまま成瀬をまっすぐに見る。
「――まどかさんは、どんなふうに亡くなったのかしら」
「実は、事故に遭って……」
成瀬はそういうと、持ってきていたカバンから資料を集めたファイルを取り出し、小さな新聞の切り抜きを見つけると、山北に向かって差し出した。
それは、母が亡くなった時の事故について報じた新聞の切り抜き。元々は【事故現場で手を合わせてはいけない】を書くために見つけていた資料である。
山北は新聞の切り抜きを目だけで読むと、途中一度だけ目を見張って、それからゆっくりと目を閉じた。
記事は数十行で終わるような短いものだったので、全国紙で報じられることはなかったし、遠方に引っ越していた山北が詳細を知らないのも無理はない。
「俺には、母の記憶があまりなくて。ずっと病死と聞かされていたのを、最近になって事故死だと知りました。母の日記も、ハイキングに行く前日で終わっていて……」
成瀬はギュッと膝の上で拳を握る。
「だから、母に起きたことを知りたくて。調べていたら山北さんに辿り着いたんです」
「……そうだったのね」
呟くように言った山北は、成瀬を懐かしさと悲しみの混じった目でジッと見つめた。
それからすぐに息を吐くように視線を落とすと、山北はテーブルの上ですっかり冷めてしまった、真っ黒なコーヒーの入ったカップに両手を添える。
「『禁忌欄』の企画のお話で、山女が成り代わるお話があったでしょう? あれを読んだ時、きっとまどかさんは精神を病んだのではなく、崖から落ちた時に山女に乗っ取られてしまったんじゃないかなって、思ったの」
「俺たちも、同じように考えています」
崖から落ちた日に、山女に成り代わられてしまった母。
その事実に思い至ることはなかったものの、彼女の異様な変化に気づいた父は、幼い自分を引き離した。しかし、かえってそれが過剰な執着を呼び、子どもを探しまわって徘徊する原因になったのだろう。
そしてそれは、いつしか生き霊を飛ばすまでになり『赤い女の話』という怪談話まで作り出した。
横峯大学のオカルトサークルが、山女について調べていたら怪現象に見舞われたというのも、おそらく山北の話した出来事が起源だ。
経緯として、理屈として、理解はできるけれど、受け入れるにはあまりに重すぎる。
「山女の成り代わりの記事は、私が書きました」
それまで成瀬の隣の席で、静かに話を聞いていた辻堂が手を挙げた。
「成り代わられていた人間は、基本的に死んでいて、山女はすでに死んでいる肉体を操って、人間のふりをするそうです。その、入院中だった時のまどかさんの様子って、どうだったか覚えていらっしゃいますか? 何か変わったところとかは……」
辻堂の質問に、成瀬はなるほど、と感心する。
今目の前にいる山北は、生前の母と山女になったばかりの母の両方を知っていて、記憶している唯一の存在だ。怪異になってしまった今の状態では、山女がどんなものなのか調べることは難しいが、そうなる前の状態の話は、ものすごく貴重な情報になる。
「そうねぇ。目つきが異様で、赤ちゃんを手放そうとしないところ以外は、至って普通に見えたわ。あれが本当は死んでいる肉体だなんて、今考えてもとてもそんなふうに思えないし」
山北が懸命に当時の様子を思い出しているようだった。
しかし、二十年以上前の話なので、なかなか難しいだろう。
「なにかこう……お経を嫌がるとか、十字架やにんにくを避けるとか、そういうのはありましたか?」
「残念だけど、そういうのまでは分からないわね」
「……そうですか」
困ったように笑って返す山北の言葉に、辻堂が分かりやすくしょんぼりとしていた。
「……なんでそんなこと聞いたんですか?」
最初こそ辻堂の質問に感心した成瀬だったが、その後の質問が予想外すぎて、つい社外の人の前だというのに、会社内にいる時のような物言いになってしまう。
「いやほら、苦手なものとか分かってれば、現れた時に追い払う手段にならないかなーって思って。あ、まどかさんが生前に苦手だったもののほうが効果あるかな?」
成瀬は若干呆れた顔で見ていたのだが、辻堂の考えも一理ある。
「そういうことですか。確かに、山女が成り代わった人間の感覚のままなら、母が嫌いだったものとか嫌がりそうですが。……でも、嗜好も変わっちゃうんですよね?」
「ああ、そうだった……」
辻堂がガックリと肩を落とす。
確かに、山女の弱点というものはよく分からない。
山女は山女であって、ゾンビでもなければキョンシーでもなく、ましてや吸血鬼なんかでもないからだ。
「まどかさんは、お化けも虫も全然平気な人だったから、苦手なものは思いつかないわねぇ」
コロコロと変わる辻堂の様子を、困ったように笑いながら見ていた山北が、ああでも、と何か思い出した顔をする。
「『苦手』とは逆かもしれないけど、入院していたまどかさんからは、オシロイの匂いがしていたわね」
「オシロイの匂い、ですか?」
「ええ。まどかさんは普段からあまりお化粧をしない人だったのに、不思議だなって思った記憶があるわ」
話しているうちに思い出したのだろうか。山北は目を閉じてさらに昔の、当時のことを思い出そうとするように言葉を続ける。
「……そう。お見舞いに行って、目つきはおかしいけど顔色は良くて。でも、よく見たらお化粧をしてることに気付いて――。だから本当はあまりよくない顔色を隠すためにしてるのかしら、って」
ふ、と目を開けた山北は、何かを思いついたように顔を上げて言う。
「あれってもしかして、身体から出てくる腐敗臭を隠すためだったんじゃないかしら?」
「……そうか、本当なら死んでる肉体だから、腐敗臭がするはず」
「山女の伝承でも、腐敗臭で村人が異常に気付いてたものね」
山女は、本来ならば動くはずのない死んだ肉体が、人間のふりをしているだけ。
そして血の巡らない死人の身体が、ずっとお日様の下にあれば、腐らないはずもない。
「……あ、だからだわ!」
辻堂が突然、閃いたように言う。
「成瀬くんはずっとお母さんの近くにいたから、オシロイの匂いと一緒に無意識に腐敗臭を感じていたんじゃないかしら? でも嫌な匂いだから、成瀬くんはお母さんに嫌悪感を覚えてたのよ!」
「それで母さんのことを思い出すと、オシロイの匂いを思い出して気持ち悪くなる……?」
匂いと記憶は、まるでセットのように刻まれる。
そして成瀬はそれがトラウマとなってしまい、女性に極端に近づかれること自体が苦手になってしまったのではないだろうか。
「きっと、匂いだけじゃないのかもしれないわね」
茫然とする成瀬に、山北がポツリと言う。
「私にも娘がいるけれど。赤ちゃんって、無意識に自分にとって安全かどうかを感じ取ってるところがあるじゃない? きっと幼いあなたは『これは母親ではない』と、分かっていたのかもしれないわね」
幼い頃の自分は、母の姿をした、母ではないものの腕にずっと抱かれていた。
「……そうかも、しれません」
成瀬はようやく腑に落ちた。
自分は実の親を愛せないような、薄情な人間などではなかった。
だって、自分を抱いていた者は、母ではなかったのだから。
だからこそ自分は、母への執着がなかったのだ。
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