
第十五話 家族
「お休みの日にすみません」
「いやいや、気にしないで」
日曜日。七摘町にある祖父母が遺してくれた実家に、成瀬と辻堂、奥沢、星川の四人でやって来ていた。
家とその鍵の管理は近所に住む成瀬の父の従弟・幸浦が行っているため、まずそちらに出向き、幸浦同行のもと実家に向かう。
祖父の妹の息子にあたる幸浦は、上背のある筋肉質な体格で日に焼けており、顔つきにはどことなく成瀬の父の面影があった。
「勇一兄さんが遺したものは、ほとんど奥の、写真部屋にまとめてあります。蛍くんは分かるよね?」
「はい、大丈夫です」
砂利石を敷き詰めた小さな庭のある、大きな平屋の日本家屋。
昔ながらの磨りガラスをはめた引き戸の玄関を、幸浦が古びた鍵でガチャガチャと開けた。
少し湿っぽい空気と、懐かしい木と土の匂いがふわりと鼻を掠める。
「二、三ヶ月に一回、換気と掃除に来てるくらいなので、ちょっと埃っぽいですが」
中に入ると広い土間があり、幸浦は端の方に向かうと、天井近い位置にあるブレーカーの主電源を押し上げた。
玄関の明かりのスイッチを押すと、黄色っぽい光が薄暗かった周囲を照らす。
「電気と水道は使えます。探し物が終わったら戸締りと、ブレーカーを落としてから、鍵をかけてもらえばいいので」
「ありがとうございます」
幸浦は鍵を成瀬に渡すと、それじゃあ、と自宅へ帰って行った。帰る時は鍵を幸浦家に返しにいけばいいらしい。
「まず、両親と祖父母に挨拶していいですか?」
「挨拶?」
「ええ。四人の位牌とか仏壇は、この家にあるので」
「ああ、そうなのね」
靴を脱いで上がった四人は、玄関のすぐ横へ伸びる、縁側に面した方の廊下をキシキシと音を立てながら進む。
縁側から見える砂利石を敷き詰めた小さな庭には、支える柱のなくなった物干し台の台座だけが寂しく残されていて、その周囲をたくましい雑草が縁取っていた。
そこでは祖母がよく洗濯物を干していて、幼い成瀬は一緒に大きなシーツを干したりしていたのを思い出す。天気のいい日は、縁側に畳まれたお日様の匂いがする布団の上に寝転んで、よく怒られていた。
「お庭も思ったより荒れてないのね」
思い出に耽っていると、成瀬の後ろを歩く辻堂が呟くように言う。
「幸浦さんたちが、手入れしてくれてるんだと思います」
「そう……まめにやってくれてるのね」
「ええ。家の管理をしてもらう代わりに、祖父母の所有していた畑を貸しているので。俺にはなかなか手に余るものですし」
「あ、そっか。ここは成瀬くんが相続した家でもあるのか」
父の従弟である幸浦は、七摘町で農業をしていることもあり、管理については快く引き受けてくれた。ここからK新聞社に通うことも考えたが、車の免許がないとなかなか難しいのもあって、今の状態に落ち着いたのである。
「幸浦さん、背の大きい人だったねぇ。成瀬くんのお父さんも大きかったの?」
「いえ、身長は俺よりちょっと高いくらいでしたね。祖父は大きかったんですが」
父は親類の中でも小さいほうで、この家でよくあった親戚の集まりでは、自分も父と一緒に背が低いとよく揶揄われたものだ。
普段は忘れているはずのことが、この家にくると些細なことでも昨日のことのように浮かんできてしまう。
――この家は、思い出が多いからな。
あまり訪れないのは、それを思い出すと寂しくなるからかもしれない。
広い居間の隣にある部屋の前までくると、成瀬はきっちりと閉じられていた障子を開ける。
畳敷きの部屋は、ほんのりとい草の匂いをさせながら、眠りから醒めたばかりのように、静かで薄ら明るい。
その奥の一面には、床の間ときっちりと扉を閉じた大きくて黒い仏壇、そして押し入れが並んでいた。
成瀬はそのまま奥まで入ると、妙に明るい金の飾りが施された黒塗りの観音扉をゆっくり開ける。
内側は仰々しいほどに明るい金装飾を施されており、奥に黒い位牌が四つ、その手前に空の小さな湯呑みと御前が並び、造花を飾った花立とロウソクのない燭台、一番手前に灰の入った香炉が置かれていた。
それらの脇を飾るように、写真立てが三つある。父と祖父母のそれぞれの写真だ。
「……あ、しまった」
成瀬がそう言って自分のバッグを見つめる。
「どうしたの?」
「お線香用のライター、忘れてきちゃって」
定期的にみてもらってるとはいえ、無人の家ではいつ何があるか分からない。なので火事を避けるためにも、ライターやマッチなどはこの家に置かないようにしている。
普段であれば、自宅アパートに置いてあるお参りに使う時用のライターを持ってくるのだが、一度も家に帰れていないこともあり、すっかり失念していた。
「なんだ。それなら僕が持ってるから、使うといい」
そう言って奥沢が、ジャケットの内ポケットに入れていたオイルライターを差し出す。
「あ、ありがとうございます」
成瀬はライターを受け取ると、仏壇の香炉などを置いてあるスペースのすぐ下にある引き出しを開け、線香の束を取り出した。
緑色の細い棒を二つだけ抜き取ると、先端に火をつけて香炉に立てる。白く細い煙が、ツンとくる独特の匂いをゆらりと描いた。
「……ただいま」
香りに耳を澄ませるように、成瀬は両手を合わせて目を閉じる。
この家に、線香の香りが漂うのはいつぶりだろうか。
「……僕も、久々に会えた親友に線香をあげたいんだけど、いいかな?」
成瀬が顔を上げて目を開けると、そばで静かに見守っていた奥沢がそう言った。
「――はい、ぜひ」
そう言って成瀬が笑うと、辻堂と星川も小さく手を挙げる。
「あ、私もいい? いつもの成瀬くんのことお伝えしたいし」
「オレも、ご挨拶しておきたいです」
線香をそれぞれあげた三人が、仏壇の前に並んで手を合わせる様子を、成瀬は後ろから見守った。
一人で来る時より、部屋に立ち込める香りが強い。
この匂いを嗅ぐとどうしても、自分は一人きりだと思い知らされてしまうので、成瀬はあまり好きじゃなかった。
――でも、今日は平気かも。
家族とは違う、頼れる人がいるというのは、こんなにも心強い。
しばらく手を合わせていた三人が、ゆっくり顔を上げる。そして辻堂が、よし、と大きく頷いた。
「挨拶も済ませたことだし、さっそく成瀬くんのお父さんの荷物を……」
「あの、すみません」
ジッと仏壇のほうを見つめたままの星川が声を上げる。
「え、なに?」
「気になってたんですけど、位牌は四つあるのに、どうして写真は三つなんですか?」
仏前に並ぶ、父、祖母、祖父がそれぞれ写った三枚の写真を指さして、星川がそう言った。
「そういえば、そうね?」
「お母さんの、まどかさんの写真は飾ってないのかい?」
辻堂や奥沢に言われて、成瀬はそこで初めて気がつく。
自分にとって仏壇に写真が三つしかないのは、当たり前のことだったからだ。
「……そう、ですよね?」
「え? 普段からお母さんの写真を置いてなかったの?」
「はい……」
「ええ?」
困惑する辻堂に、成瀬も同じような表情を向ける。
「普通、母の写真も置きますよね? でも、うちはずっと、母の写真は飾ってなかったんです。それがなんか、当たり前になってて……」
自宅にあった母の写真を見ても、これが母だとピンと来なかったのは、自分が幼かったせいではないのかもしれない。
「もしかしたら、意識的にそうしていたのかもしれないね」
「……なんで、ですか?」
「さすがにそこまでは分からないが……」
成瀬は言葉に詰まる奥沢から、視線を仏壇のほうへ移動する。
奥に並んだ、四つの黒い位牌。
自分には確かに四人の家族がいた。祖父母と父、そして母。なぜ母だけ、写真を置いていなかったのだろう。
まるで母のことを、自分から遠ざけようとしているみたいだ。
「……あの位牌のうちの一つは、本当に母のものなんでしょうか?」
褪せた金色の文字で戒名が刻まれているそれらが、なんだか急に恐ろしいもののように見えてしまい、成瀬は呟くように言った。
「位牌の裏を見れば分かるはずよ」
静かな声で辻堂が言う。
「……え」
「位牌は一般的には表に戒名を書いて、裏に俗名――生前の名前が書かれるの」
「よし、確かめてみようか」
奥沢が仏壇に近づくと「失礼しますね」と奥に並んでいた位牌に手を伸ばす。一つずつ、ゆっくりと取り出されたそれを、成瀬は受け取った。
位牌の埃を払いながらひっくり返すと、最初のものには『成瀬勇一』と父の名前が書かれている。続いて、祖父、祖母の名前が書かれていて、一番古そうな最後の一つには――。
「『羽沢まどか』……」
奥沢に教えてもらった、自分が生まれていた時に冠していた苗字と、母の名前。
やはりこの名前もこの位牌も、間違いなく母なのだ。
「これが本当に、母の名前だったんですね」
表に書かれた戒名と裏の俗名を何度も見比べる。ずっと位牌に書かれた戒名ばかり見て育ってきたので、こちらのほうがすっかり見慣れてしまっていた。
まさかその裏には、自分の知らない真実がずっと刻まれていたなんて、思いもよらなかった。
「どうして、俺は……」
――何も知らないのだろう。
位牌を見つめたまま、ぐっと唇を噛む成瀬の肩を、星川がポンッと優しく叩く。
「それを調べるために来たんですよ、成瀬さん」
「そうよ!」
「……星川くん、辻堂さん」
「君のお父さんが、意味もなくこんなことをするはずがないさ」
奥沢がそう言って、成瀬の手から母の位牌をそっと取り上げると、仏壇の奥の、一番端へ戻した。
「きっと、何か意味がある。そうだろう?」
「……はい」
こちらをみて微笑む奥沢に、成瀬は頷き返す。
恐れている場合ではない。
母が赤い山女になったことも、父が自分から母を遠ざけていたことも、きっと意味が、理由があるはずだ。
「じゃあとりあえず、成瀬くんのお父さんの荷物を見てみましょう!」
「そうですね。……こっちです」
成瀬たちは仏間を出ると、縁側になっている廊下を玄関まで戻り、今度は玄関からまっすぐ正面に伸びている廊下を奥まで進んだ。
廊下の突き当たりまでくると、左側には引き戸を開け放した家具類のないキッチンが広がり、右側にはきっちり閉じた木製の引き戸のついた壁。
「ここが、父の『写真部屋』です」
成瀬はそう言うと、ゆっくりと引き戸を開ける。
レールもきちんと手入れされているのか、古くて分厚い戸のわりに、スルスルとスムーズに開いた。
中は六畳ほどの和室で、色褪せた畳が敷かれ、ほとんどの壁面に本棚や箪笥などが並び、床にもいくつものプラスチックケースが転がっている。
その中身のほとんどが、写真か撮影済みのフィルムだ。
「わ、なにこれ!」
成瀬のすぐ後ろにいた辻堂が室内を見るなり、驚いて大声を上げる。
「これが父の残した遺品というか『写真』です」
そう言いながら成瀬は部屋の奥まで入ると、閉じられていたカーテンと窓を開けた。室内にこもっていた空気がゆっくりとキレイなものに入れ替わる。
北側に位置する部屋のせいか、カーテンを開けた程度ではやはり暗いので、成瀬は部屋の真ん中に吊り下げられた四角い傘の照明を点けた。
「なるほど。ほとんどが写真だから『写真部屋』なわけですね」
星川が明るくなった室内を見回し、すぐ近くにあった衣装箪笥の引き出しを開けてみる。しかし中には、紙製の薄いアルバムが山のように積み重なっているだけ。
「……うわ、ここにも写真が」
「すごい数ねぇ……」
ドン引きする星川と辻堂をよそに、奥沢はニコニコと懐かしそうな顔をして部屋を見回していた。
「随分キレイに整理したもんだね」
「はい。俺より、幸浦さんたちが頑張ってくれたと思います」
「ああ、なるほどね」
成瀬と奥沢の会話を聞いていた辻堂が、不思議そうな顔をする。
「部長はご存知だったんですか?」
「うん。この部屋は初めて入るけど、彼が亡くなった時に住んでた部屋の片付けや葬儀の取り仕切りは、僕がやったからね」
「あ、そうだったんですね」
「……成瀬くんは当時まだ大学生で、お祖父さんお祖母さんも亡くなった後だったし」
「あの時は、本当に助かりました。誰に何を聞いたらいいかも、分からなかったので」
奥沢に懐かしそうな視線を向けられ、成瀬は改めて頭を下げた。
「身近な大人として、当然のことをしただけさ」
そう言って奥沢は成瀬の頭を大きな手で撫でる。
「さぁ、どんな小さなことでもいいから、手がかりになるものを探そう」
「はい!」
四人は手分けして、成瀬が幼い頃の写真を探しはじめた。
本棚には書籍のほかにいくつものアルバムが入っており、床に積まれた半透明の押し入れ収納用プラスチックケースの中にも写真を納めたファイルケースが入っている。
星川は衣装箪笥の引き出しに入っていたアルバムを取り出し、パラパラとめくっていた。
「箪笥の中に入ってるのは、学生時代のものですかね? 日付が随分古いし」
「あ、この辺は家族写真っぽいわよ」
背の低い本棚に並んでいたアルバムをめくっていた辻堂が声を上げる。
ちょうど開いているページは、結婚式の様子を写した写真が並んでいた。そこからさらにページをめくった辻堂が、あ、とテンション高めに言う。
「やだー、この赤ちゃん成瀬くんじゃない? すっごく可愛い!」
「ちょっと、楽しまないでくださいよ」
「……なんか、女の子みたいですね」
「もー、星川くんまで!」
辻堂の開いたアルバムを覗き込んだ星川にまで言われ、さすがの成瀬も少し恥ずかしい。
「こらこら、真面目にやらないと日が暮れちゃうよ」
「はぁい」
「すみません」
奥沢にたしなめられ、辻堂と星川が作業に戻る。
とはいえ、辻堂が見ていた辺りに父が結婚して以降の写真があるらしいことは分かったので、辻堂と星川は二人でその辺りのアルバムをそれぞれ開いていった。
成瀬が生まれてからは、本当にたくさん写真を撮っていたようで、赤ん坊の写真がビックリするほどに多い。
そしてその赤ん坊のすぐ近くには、黒髪に赤い洋服を着た女性が写っている。
無邪気に笑う赤ん坊と優しく微笑む母親の写真は、どこからどう見ても幸せそうな母子にしか見えない。成瀬が母に何か嫌なことをされていた、とは到底思えなかった。
「写真を見る限り普通の、優しいお母さんにしか見えませんね」
「そうよねぇ」
アルバムを見て回る辻堂と星川とは別に、成瀬と奥沢はもう一つの大きな箪笥の、アルバム以外のものが入っている引き出しを見て回っていた。
父が残していた『遺書』は、使っていた家の片付けをした際に箪笥の引き出しにあり、遺産や遺品については書かれていた通りにしている。
その一つが、住んでいたアパートに残された引き出しと本棚、そしてたくさんの衣装ケースなどを、そっくりそのまま実家のこの部屋に移しておいて欲しいというものだった。
成瀬の開けた引き出しには、山のようにたくさんの手帳が入っている。まめにメモをとるタイプだったようで、一年ごとに分けられた手帳には、仕事に関連しているであろう内容がびっしりと書かれていた。
「手帳はいっぱい出てきたけど、仕事のことしか書いてないや」
ため息をつく成瀬の横で、奥沢はたくさんの書類が挟まったファイルをめくっている。
「こっちは入院の手続きとか、検査結果の書類だな」
「ああ、父が入院した時の」
父は治る見込みのある病気を患い、入院して投薬を続ければ完治するはずだったので、その時の書類だろうか。
「……いや、こっちのはアイツの名前じゃないな」
何枚か書類をめくった奥沢の表情がなんだか険しい。
「え、誰のですか?」
成瀬の中では、父以外に自分や祖父母が入院した記憶が無い。それに、母が病気で入院していて亡くなった、というのは事実ではないはずだが。
そう思いながら、成瀬は奥沢がこちらに向けた書類に目を通す。
書かれていた、入院する人物の名前は『羽沢まどか』だった。
「……母さん? え、でも病気じゃなかったはずじゃ」
「入院の理由はどうも病気じゃなくて、ケガみたいだね」
奥沢の言葉で、成瀬の頭の中に浮かんだものがある。
自宅のアパートのアルバムに出てきた、病院着を着た母と、そんな母に抱かれた自分の写真。
「……そういえば、母さんが入院してる時みたいな写真がありました」
自分はその写真を見たからこそ、母は病気で入院していたと父の言葉を信じたのだ。
「あ、その成瀬さんのお母さんが入院してるっぽい時の写真、ありましたよ」
アルバムのほうを調べていた星川がそう言って手を挙げる。
「ほら、これ」
星川の広げたアルバムを見ると、自宅アパートで見たものとそっくりな写真が何枚も貼られていた。
「そう、この写真。うちにある写真にも同じようなのがあって……」
背景や自分や母の着ている服が全く同じなので、同じ日に撮ったものだろう。
「背景とか着てる服からして、確かに入院中って感じですよね」
しかし、よく見ると何かが違った。
「そうだね。でも、頭に包帯巻いてるってことは、病気ではなさそうだ」
横から覗き込んだ奥沢の指摘で、成瀬はああそうか、と合点がいく。
「……うちにあった写真、頭が見切れてて包帯が映ってなかったんだ」
アパートにあった写真は、偶然なのか意図的なのか、頭の包帯が見えないような画角になっていたのだ。
だから自分はあの写真を『病気』で入院中の母だと思い込んだのである。
成瀬が茫然としていると、引き続き本棚のアルバムを一つずつ確認していた辻堂が声を上げた。
「あ。ねぇちょっと、このアルバム……!」
辻堂が差し出したアルバムの、大きく開いたページの真ん中。
封をされた比較的新しく見える封筒が、ひっそりと置いてあった。
表書きには『蛍へ』と、見覚えのある文字が書かれている。
「……これは」
「君のお父さんの字だね」
奥沢の言葉に頷くと、成瀬は恐る恐る封を切り、父からの手紙を開いた。
◇
蛍へ
この手紙を見つけたということは、お前が母さんの死に疑問を持ったからにほかならないだろう。
どこまで調べたかは分からないが、単刀直入に書いておく。
お前には『病気』で亡くなったと言い聞かせてきたが、母さんは事故に遭って亡くなったのが本当だ。
通学路の途中にある〇〇交差点。あそこがそうだ。ほとんど即死だったらしい。
でも、隠していたのにはきちんと理由がある。
母さんは自然が好きで、女一人で七摘山にハイキングやキャンプをしに行くような人だった。
そのせいか「自然に近い場所で暮らしたい」と言われて、母さんが生きていた頃は、わざわざ七摘山の出入り口付近にあるアパートに引っ越したんだ。仕方のない人だろう?
でもそこが魅力的で、素敵な人だった。
ただ、ある時から性格がまるっと変わってしまって。
お前が生まれたばかりの頃は、自分が好きなことを好きなだけやってきたし、好きなことをさせてのびのびと育てたいと言っていたんだ。
でもある時を境に「蛍は私の子だから、ずっとずーっと一緒にいるの」と常に抱いているくらい、異様に執着するようになってしまった。
お前がまだ二歳くらいのとき、久々に出掛けた山で事故に遭いケガをしたんだけど、その時に随分と怖い思いをしたようでね。
最初はそのせいで、子どもと離れ難いのだろうと思ったんだが、戻る気配がなくて。
ずっと抱いていては大変だろう、と少しでも引き離そうとすると大騒ぎで、そのうち顔つきもだんだん変わっていってね。
お前も、ずっとくっつかれているのが嫌なのか、あんなに母が大好きだったはずなのに、だんだん嫌がるようになった。
さすがにこれは良くないと思い、隙を見て実家にお前だけ連れて行ったら、半狂乱で近所を探し回り始めるようになったんだ。
大変だったよ。何度も抱えてアパートに連れ帰って。
精神的な病気か、山での事故の後遺症だろうから検査をして入院させるつもりだった。
けれど、その準備を進めている最中に、また一人でアパートを抜け出して、今度は車に。
それをきっかけにアパートを引き払い、実家に戻ったんだ。その時に、苗字も成瀬に戻した。実家で暮らすなら、そのほうが都合もいいしね。
彼女が自分の苗字を残したいからという要望で『羽沢』の姓にしていたんだけど、仕方がないね。
幸いお前は、母さんを恋しがることもなかったし、あの頃が苦痛だったのか記憶もあまりないようだったから、病気で亡くなったと言っておくことにしたんだ。
そうそう、仏壇に母さんの写真だけないだろう?
覚えていないだろうけど、あれはお前が妙に怖がったから飾っていないんだよ。
自分の口で伝えられたらと思っていたけど、私ももう長くはなさそうなのでこうして遺しておくことにする。
本来なら治るはずの病気らしいが、薬の効きが悪いらしい。
それも仕方がないだろう。
母さんが時々、憎しみのこもった目でこちらを見にくる時がある。
大事な子どもと引き離した私は、彼女にとっては悪者だろうから、きっとその罰なんだろうね。
でも、母さんを恨まないでほしい。
お前を愛していたのは、本当だから。
成瀬勇一
◇
「……確かに、顔つきが変わってますね」
星川が成瀬が生まれた頃と、母が亡くなる直前くらいのアルバムを見つけ出し、畳の上に並べる。
成瀬が生まれた頃の母は、穏やかに笑っているのだが、亡くなる直前くらいと思われる写真は、赤ん坊をギュッと抱きしめて微笑ましくはあるものの、その目つきが明らかに異常なものになっていた。
背筋がぞくりとするようなこの目つきを、成瀬は一度見ている。
――赤い山女と、同じ目つきだ。
「つまり、成瀬くんのお母さんは、事故に遭って亡くなってから山女になったわけじゃない……?」
「山女の伝承で、ありましたよね。山で行方不明になった人が帰ってきたら、実は山女だったって話」
それは『K新聞の禁忌欄』でも取り上げた話だ。
「じゃあ成瀬くんが小さい時、すでにお母さんは『山女』になっていた?」
「成瀬さんのお母さんも、山で行方不明というか、一人になった時間があるんじゃないですか?」
星川の言葉に、成瀬は手紙の一文を指差す。
「……ここに『山で事故に遭った』ってあるから、その時じゃないかな」
「じゃあ、この事故に関連しそうなものがないか探しましょう」
四人は引き続き、事故について書かれたものがないかと部屋の中のものを探し回る。
写真に関する書籍の入った棚を見ていると、一つだけ背表紙になにも書いていない本があった。
暗い赤色の、布張りの本。
何かと思い開いてみると、それは本ではなくノートになっていて、日付と共に数行の文章がボールペンで書かれていた。
そしてその筆跡は、父の書くものとは違う。
「……コレ、もしかして母さんの日記?」
パラパラとめくっていくと、ビッシリ書かれていた日記は後半のほうで真っ白になって終わっていた。
最後の日記が書かれた年月日は、まだ成瀬が二歳の頃。
「『明日は久々のハイキング。場所はもちろん七摘山! 蛍ちゃんは勇一さんにお願いしたし、いっぱい緑を満喫するぞ。なっちゃんたちに会うのも久しぶりだし、楽しみだなぁ』……七摘山にハイキングへ行く前日で終わってる」
「じゃあ事故に遭った山って、七摘山ってこと?」
七摘山で何かしらの事故に遭い、その時に『山女』に成り代わられたのなら合点がいく。
成瀬と辻堂が愕然としていると、星川が、あの……と手を挙げる。
「確か【なだらかな山でも注意を怠ってはいけない】の話も、三十年くらい前の話、ですよね」
七摘山にハイキングに出掛けた投稿者の友人が崖から落ちてしまい、黒いワンピースを着た山女に助けられたという話。
「そうだったわね……」
「もし、その助けられた人が成瀬さんのお母さんだったら、時期的にも合いませんか?」
人間の年月の感覚は、人によってだいぶ違う。
赤い山女が目撃されるようになったのは、母が交差点で事故に遭って死亡した後。成瀬も小学生の頃なので二十年前だ。
それ以前であれば、数年の差はあれど、三十年くらい前だと思っていても不思議ではない。
「あの記事を書いたの、久地さんでしたよね? 崖から落ちた人の名前とか、聞いてないですかね?」
「どうだったかしら……。ちょっと連絡してみるわね」
成瀬の言葉に、辻堂は部屋を出てすぐの廊下に移動し、久地に電話を掛けた。
「僕たちは、この日記に出てきてる『なっちゃん』が誰なのか、調べてみようか」
「はい」
他の三人は再び部屋の中を捜索し、母親のものと思われる荷物を探す。
アルバムには、母が友人らしき女性と写っている写真があるにはあるが、いろんな女性が出てくるのでどれが誰なのかまでは分からなかった。
「成瀬さんのお母さん、お友達が多かったみたいですね」
「そうみたいだね」
ほとんどが山登りをする時の格好で写っているので、自然が好きな人たちの集まりにでも参加していたのだろうか。
その割には、母が亡くなった後に友人らしい人たちが線香をあげたいと訪ねてきた記憶はない。
顔さえあまり覚えていない母。
彼女はどんな人だったのだろう。
「あ、これなんか色んな人の住所書いてますよ」
星川が引き出しの奥の方から、小さなバインダーのようなものを取り出した。長方形のファイルには、ひとまわり小さいサイズの紙がいくつも綴じてあり、その一枚一枚に住所と氏名、電話番号などが書かれている。
「ああ、アドレス帳だね。昔は今みたいに便利な時代じゃなかったから、住所なんかはこうやって紙に書いてまとめるのが当たり前だったんだよね」
奥沢はそう言うと、中身をパラパラとめくり、うん、と頷いた。
「どうやらこれは、文字からして成瀬くんのお母さんのものみたいだ」
「そうみたいですね」
日記に書かれていたものと、似たようなクセのある文字。記録されている情報も、比較的女性の名前が多いようだ。
「名前に『な』が付く人を探してみましょうか」
「そうだね。えーっと……」
成瀬たち三人がアドレス帳を確認している最中、辻堂は何度目となるか分からない電話の発信ボタンをタップする。
休日の、もう夕方近い時間だというのに、久地がまったく電話に出ないのだ。出掛けていたら申し訳ないので、ショートメッセージも送ったのだが、そちらにも反応がない。
「……あの子ったら、もう!」
久地とは長い付き合いなので、休みの前日は朝まで酒を飲んで、夕方まで寝ているタイプであることは知っている。なので、ああこれはまだ寝ているのだな、と勘づいた辻堂は、ひたすらに電話を掛けまくっていたのであった。
《……あい、なんですかぁ? こんな早くにぃ》
そうして何度目かの電話で、ようやく繋がった電話の向こうは、やはり寝起きらしい眠たい声。
「もう、やっと出た! 早くないわよ、もうすぐ夕方よ」
《えぇ……。あ、ほーんとだぁ》
はぁ、と呆れて息を吐くと、辻堂は咳払いを一つ、早速本題に入る。
「休みの日にごめんね。禁忌欄の【なだらかな山でも注意を怠ってはいけない】って久地さんが書いた記事よね? あの記事で出てきた、崖から落ちたっていうご友人の名前を知りたいんだけど、分かるかしら?」
《えー……。――あぁ、あの記事の。ちょっと待ってくださいねぇ》
まだ頭が回っていないのか、のんびりとした声で久地が返しつつ、パソコンのデータを確認しているのか、カチカチとマウスを操作するような音が向こうから聞こえた。
《……あれ、書いてないや》
「え、どうして?」
《あ、そうだ思い出した。なんか投稿者の人が、『事故の後に色々あったから、友人の名前は伏せさせて欲しい』って言って、教えてもらえなかったんです》
「色々あった……?」
なんとも不穏な表現に、辻堂は眉をひそめる。
取材では本名などは記事に出さないよう、最初に説明をするし、それなりに経験のある久地がそれを伝え忘れたとは思えない。
例え表に出ないにしても、他人に言えないというのは妙に気になる。
「そう、じゃあその投稿者の方の名前は?」
《えっとですねぇ――》
辻堂は久地の言った名前を繰り返した。
「……『ヤマキタナツミ』さん?」
それとほぼ同じくらいのタイミングで、成瀬たちはアドレス帳に『山北なつみ』の文字を見つける。
「その名前、アドレス帳にあります!」
成瀬が廊下のほうにいる辻堂に向かって言うと、辻堂がこちらに向かって小さく頷いた。
「久地さん悪いんだけど、その人に確認したいことがあるからって、アポとってもらえないかしら? ……そうなの、なる早でお願い。うん、ありがとう、よろしく」
電話を終えた辻堂が成瀬たちの元に戻ってきて、深く息を吐く。
「崖から落ちた人の名前は、教えてもらえなかったみたい」
「なんか『色々あった』って聞こえましたけど」
「何があったら、教えられないのかしら?」
辻堂が口をヘの字に曲げて肩をすくめた。
「……母は、アルバムを見る限り友人が多かったようなのに、俺は母の友人という人に会ったことがないんです」
もし、一度でも母の友人が手を合わせに来ていたら、母が病気で亡くなったわけではないと、気付くこともあっただろう。
それが無かったということは、母の友人たちには名前を出すのが憚られるような『何か』があったのだ。
「普通、仲のいい人なら、何周忌とかでお線香あげに来たりとかするわよね? そういうのも無かったの?」
「はい。だからもしかしたら、その『色々あった』が関係してるのかなって」
父の残した『写真部屋』には、母が七摘山での事故以降おかしくなってしまった、ということ以上の情報は見当たらない。
事故当時に起きたこと、そしてその後について知っている人に話を聞くしかないだろう。
「確認してみよう、崖から落ちた山北さんの友人が、成瀬くんのお母さんだったのかどうか」
「……はい」
青かった空は、すでにオレンジ色に染まり始めていた。
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